びょうぶをまなぶ

長谷川等伯について

長谷川等伯(はせがわとうはく 1539~1610)は、巧みな筆さばきで光や風まであらわした「松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)」(東京国立博物館蔵)や、金箔の画面に極彩色で華やかな「楓図壁貼付(かえでずかべはりつけ)」(京都市・智積院蔵)などの国宝で、日本のみならず世界的に知られた戦国時代の天才絵師です。

等伯は能登の戦国大名、畠山家家臣の奥村家の子として生まれましたが、染色業を営む長谷川家に養子に入り、養祖父、養父に絵の手ほどきを受けました。はじめ信春と名乗って仏画を多く描き、その後等伯は、新たな活躍の場を夢見て、京都に本拠地を移します。

京都での活動は当初、どんなものであったかほとんどわかりません。天正17年(1589)等伯51歳のとき、豊臣秀吉の茶頭千利休(せんのりきゅう)が、大徳寺三門の増築部分を寄進します。その金毛閣二階の天井と柱絵に等伯は筆を揮い、それが京都画壇に等伯の名を知らしめる第一歩となりました。

そして天正17年(1589)には、大徳寺の塔頭(たっちゅう 歴代住職の隠居所)三玄院の襖絵に山水図を揮毫(きごう)※1し、その後、南禅寺や妙心寺など京都の大寺院の障壁画(しょうへきが)※2を制作します。

当時、画壇の覇者として君臨していたのは狩野永徳(かのうえいとく)です。織田信長や豊臣秀吉に仕えて、さらに宮中の貴族にも関わって、城郭や寺院など、さまざまな建物の障壁画に筆を揮っていました。一方の等伯は、大寺院の住職、商人や武将など京都の有力者たちと交わり、画壇に地歩を固めていきました。天正18年(1590)、御所の造営に際して対屋の障壁画制作を巡り、ライバルの二人は対決します。一度は襖絵揮毫の注文を得ましたが、永徳らが宮中に申し出て妨害されてしまいます。この出来事は等伯一派の勢力が、狩野一門に迫るものであったことがわかる事件でした。この後、等伯は秀吉の子鶴松の菩提寺で、京都随一の寺といわれた祥雲寺(現在の智積院)の障壁画制作という一大事業を成し遂げます。等伯は、絵筆一本で画壇の頂点に昇りつめたのです。

豊臣の時代が去り、天下は徳川家康のものとなろうとしていたとき、等伯は新たなパトロンを獲得するため、江戸へ向かいました。しかし途中で病をえて、江戸到着後、72歳で世を去りました。戦国の世に絵筆で一閃の光を放った等伯の絵は、高僧や戦国武将の肖像画や山水水墨画、いろどり豊かな花鳥画など、現代にまで多く伝わっています。

※1 揮毫・・・(筆をふるって)字や絵をかくこと。
※2 障壁画・・・襖に描いた絵や、壁に貼り付けた絵などの総称。

  • 国宝 松林図屏風(高精細複製) 長谷川等伯 筆
  • 時代:安土桃山時代・16世紀 材質:紙本墨画 員数:6曲1双 サイズ:各156.8×356.0 cm
  • 原本所蔵:東京国立博物館 複製所蔵:東京国立博物館
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