Athens 2004
写真:(C)アフロスポーツ

東京2020オリンピック・
パラリンピック&55競技

見どころ紹介

スペシャルインタビュー
大山加奈

アテネ2004にエースとしてオリンピック初出場。メダルこそ獲得は出来なかったものの、その圧倒的な存在感は日本国民に絶大なインパクトを残した。小中高全ての年代で全国制覇を経験したエリート選手の競技人生と、“最大のライバル”でもあるあの選手についても赤裸々に語ってくれた。

―バレーとの出会い、始めたきっかけを教えて下さい。

まず、小学校に入学した時点で138㎝と群を抜いて大きかったので、先輩から「バレーボールをやろう」と誘われて練習を見に行ったのが最初の出会いでした。私は喘息で体が弱く、学校を年40~50日休んでしまうような子供だったのですが、練習を見に行った時、先輩たちがキラキラ輝いて見えた。どうしても「バレーボールがやりたい」と両親を説得しました。実際、練習は厳しく休んでばかりでしたが、私を変えてくれたのは1つ下の妹です。性格も活発で、運動神経もいい妹もバレーボールを始めて、私より先にレギュラーになった。その姿を見て初めて「悔しい」という気持ちが芽生えました。

―小学校だけでなく中学校でも全国優勝、そして高校へ進学し、「メグカナ」として栗原恵選手と共に脚光を浴びました。

小学生の全国大会で優勝した時から注目していただいたこともあり、自分は将来バレーボール選手になるんだ、とずっと思っていました。実際全国大会にプレゼンターでいらしたのが大林素子さんで、アトランタ1996でエースとして活躍された大林さんから「はやく全日本に来てね」とメダルを首にかけられた時が、私も頑張れば日本代表になれるんだ、と初めて思えた瞬間でした。中学まではスパイカーでは自分が一番だという思いもあったのですが、高校1年生のインターハイで三田尻女子(現:誠英)が優勝、エースとして活躍するメグ(栗原恵)の存在が心にグサッと刺さりました。中学で初めて出会ったときと比べて、驚くほどのスピードで成長していたのです。高校ではライバル同士でしたが、U18などアンダーカテゴリーの日本代表ではチームメイト。メグとはとてもいい関係性だったと思います。

―高校在学時から栗原選手と共に日本代表に選出されました。

最初は「日本代表に入れた」という喜びだけでしたが、シドニー2000を逃がした翌年で、私が出場した世界選手権、アジア大会は悲惨な成績で、帰国後はバッシングの嵐で監督も更迭されました。特にアジア大会は私も全試合スタメンで出場していたので、私が活躍できなかったから監督がクビになってしまったんだ、と高校生ながら大きなショックを受けました。監督が代わり、最初の頃はとにかく試合に出たい、メンバーに入りたい、オリンピックへ行きたい、と無我夢中でしたね。毎日毎日怒られて、高校では怒られたことがなかったので、途中からは「うまくなりたい」ではなく「怒られないように」ということばかり意識するようになってしまい、本当に苦しかったです。常に周りの目を気にしていたので、メグとはすごく仲が良かったのに、2人でいたらカメラを向けられるので、一緒にいたらいけないんじゃないかと思い、だんだん距離ができていました。あの頃は孤独で、2003年のワールドカップ前に(木村)沙織が来てくれたのが救いでした。

―当時から腰痛にも苦しめられながら、アテネ2004を目指す日々。実際体の具合と練習状況、どのような毎日だったのでしょうか?

練習は朝、午前、午後、夜の四部練習でした。でも腰が痛くて脚に痺れもあって、朝練習でスパイクを打つと、もうそれだけで腰が悲鳴を上げる。治療を受けるのは夜の12時頃で、寝るのは1時、2時なのに、朝練はどんどん早くなり、4時半には動き出していました。体は限界だけれど練習を休むと「頑張っていない」と言われて、練習では起き上がれなくなるまでレシーブ練習が続く。このまま合宿を続けたら心も体も壊れてしまうと思って、アテネ2004の4か月前に合宿所を逃げ出そうとしました。周りからはエースと呼ばれる以上、強くなければいけないと強がっていたんです。本当はそんな人間じゃないのに虚勢を張っていないといけない。本当の自分を隠して違う人を演じる、それがつらかったですね。

―それでもアテネ2004には選出されました。

選ばれて嬉しいよりも、まずホッとしたんです。小学校からずっと夢だったオリンピックだったのに、選ばれて、「やった!」と思うよりまずホッとしたことがショックでした。オリンピック経験者は2人だけで、チーム全体も浮き足立っていて、初戦のブラジル戦で竹下(佳江)さんが最初のサーブをアウトした。そんなことは今までなかったので、「あのテンさん(竹下)がミスをするなんて」と思ったところから記憶がないんです。準々決勝の中国戦も、最後のサーブが私のところに来て弾いて終わってしまった。そこだけよく覚えています。だから何としてももう一度オリンピックに出たかったし、アテネ2004では沙織と同部屋だったので「北京では絶対にメダルを獲ろうね」と誓い合いました。

―アテネ2004の後は腰や肩、ケガとの戦いが続きました。

腰の状態が悪かったことに加え、オリンピックに出るという目標を達成してしまったことで、モチベーションも上がりませんでした。その時、私は自分に対して罪悪感しかなかったのですが、(下北沢成徳高の)小川(良樹)先生から、「小学校からずっとトップを走り続けているんだから、やる気が出ない時期もあって当たり前。そんなに頑張ろうとしなくていい、いい子にならなくていいんだよ」と言われました。あの言葉がなかったら、きっと終わっていました。自分の中では「リハビリに専念して頑張ろう」と思っていたのですが、オリンピックの翌年も日本代表に選出され中途半端な状態でプレーしたことで、それまで積み上げてきたものが崩れてしまった。今度は肩の中にガングリオンができて、オーバーパスを3本連続で上げることすらできなくなりました。その時はさすがにつらくて、日本代表の合宿を飛び出して、実家に逃げ帰りました。このままバレーボールを辞めようと思ったのですが、所属チームの監督が自宅まで迎えに来て「待っているよ」と言ってくれた時に、こんな自分でも必要としてくれる人や場所があるんだと思えたので、戻る決意をしました。

Athens 2004
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―肩、腰の状態は最悪だった中、07年のワールドカップに出場しました。

走ることさえできない状態でしたが、不思議とコートに立つとスパイクが打てるんです。あまり自分を褒めることはないですが、あの時だけは褒めてあげたい。練習が終わったら歩けない、動けない状態で、実際にワールドカップでもスパイクを打とうとしたらまともに跳ぶことができませんでした。大会が終わった後は病院巡りで、北京2008の最中に脊柱管狭窄症の手術を受けたので、北京2008の時はベッドの上。沙織と誓い合った北京のメダルは挑戦すらできずに道を絶たれて終わってしまいました。

―それでも競技復帰を果たしましたが10年に引退。決断した理由は?

コツコツ頑張ることは慣れていますが、歩く練習、階段を昇る練習から始めてバレーボールをトップレベルでできるところまで体を戻すのはとても大変な作業でした。でも痛みから解放されたことは幸せで、手術前は腰が曲がっていたので下ばかり向いていましたが、今は腰も伸びて前を向ける。テンションも高かったんです。周りの人からも「よかったね」と言われる中、唯一「加奈が危ない」と心配してくれたのが高校時代の恩師である小川先生でした。そして案の定、ポキっと心が折れた。リハビリを経て、試合に出場するようになってもずっとスパイクの感覚が戻らず、何か違うとモヤモヤしていた時、腰に炎症が起きた。少し休んでリハビリをすれば復帰できたかもしれないのですが、その時私の代わりにコートに立った迫田さおり選手が大活躍するんです。ずっと勝てなかったチームにも勝って、迫田選手は代表に選ばれるようになった。素晴らしいことなのに、私はそれを応援してあげることができなかったんです。チームが勝っても一緒に喜べない。そんな自分が大嫌いで、何て嫌な人間なんだろうと勝手に思い込んで、妹にも(同級生の荒木)絵里香にも話しかけられず、いつも独りぼっち。その時期が一番つらかったですし、耐えきれなかった。そのままひっそり、引退会見もせず引退しました。

―決して華やかなことばかりではない現役時代。その経験が今に活かされていると感じることはありますか?

もしかしたらあのままケガがなければ、オリンピックに出続けて、メダリストになれたかもしれません。でも苦労したおかげで人生に深みが出たし、人の痛みがわかるようになったと思っています。正直に言うと、自分がコートで活躍している時はリハビリしている人が楽そうに見えて、うらやましく思ったこともありました。でも自分がその立場に立ってみたら、楽なことなんて1つもない。本当につらくて、コートに立てることがどれだけ幸せなのかを痛感させられました。

―現役を引退して幅広い活動をされています。特に力を入れていることや、今後やってみたいことはありますか?

一番は、スポーツをやろうと思って始めた子供たちがスポーツによってその後も豊かな人生を送れたらいいな、と。子供がどんな人生を歩むかはどんな大人に出会うかで大きく変わります。小学生や中学生の指導現場へ行くこともありますが、子供を潰してしまうような声かけや指導をする方がまだまだ多く、バレーを辞めてしまう子供たちもいるので、まずはそういう子供をゼロにしたい。言葉1つでも子供は敏感に反応しますし、大人をよく見ています。間違っても「お前」などとは言わず、「彼ら」「彼女たち」と同じ目線で対等に、結果ではなくできれば過程を褒めてあげることで、子供たちのいいところがどんどん伸びていくような環境をつくりたいと思っています。

Athens 2004
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―東京2020に向けて、大山さんが期待することは何ですか?

もちろんメダルを獲るのはすごいことだと思いますが、メダルを獲ったからすごい、というだけではなく、そこまでの過程を見てほしいですね。私もどこかで、自分は1回しかオリンピックに出られなかった、メダルを持っていない、と負い目を感じることがあります。私だけでなく他競技のオリンピアンでも、メダルを期待されたのに獲れなかったことで追い込まれ、身を隠して生きてきたという人もいます。メダリストは素晴らしい。それは間違いありませんが、メダル至上主義ばかりではなく、オリンピックに対する見方や価値観が変わっていくといいなと思いますし、私自身も伝えていきたいと思っています。

インタビュアー:田中夕子