東京2020オリンピック・
パラリンピック&55競技

見どころ紹介

スペシャルインタビュー
畠山愛理

新体操日本代表の団体メンバーとして、ロンドン2012、リオ2016に出場、二大会連続で決勝進出を果たした畠山愛理さん。ロンドン2012では12年ぶりの決勝進出を決め、7位入賞という当時の日本新体操界における快挙を成し遂げた。リオ2016ではチームを引っ張る存在として活躍、その直後に引退を発表した。二度のオリンピックを経験した彼女が、最年少メンバーとして迎えたロンドン2012への思いや、リオ2016前の葛藤などを明かしてくれた。

―新体操を始めたきっかけを教えて下さい。

新体操は小学1年生の時に始めました。私は小さい頃から外で遊ぶのが大好きで、2人の兄と一緒に、当時は男の子のような遊びばかりしていたんです。そこで母が、私が小学校に上がるタイミングで何かスポーツの習い事をさせようとしてくれて。バスケットボールやバレーボール、水泳、クラシックバレエ、新体操などを体験したのですが、その中でも新体操のリボンが「すごく綺麗、楽しい」と思い、新体操を始めました。

―オリンピックを意識し始めたのはいつからですか?

意識し始めたのは小学6年生ですね。東京体育館で行われていた小学生の全日本大会がきっかけでした。私は小学2年生から6年生まで出場させてもらっていたんですが、その大会は、予選では館内の複数のフロアで同時進行で演技をするんですが、決勝に残ると大きな体育館で一人で演技することができるんです。私は「上手になりたい」というよりは「自分の演技を見てもらいたい」と思うタイプだったので、その広い体育館で一人で演技をすることを目標にしていて、6年生の時に初めて決勝に残り、6位に入賞したんです。今思うとすごく子どもっぽい考えなんですけど、「全日本で上位に入れたから、次は世界だ!」と思って。世界と言えばオリンピック選手だと考え、それからは卒業文集などでも「オリンピックに出場する」って書いていました。

―中学3年生の時にはナショナルチームに入りましたが、その前には故障に悩まされた時期があったそうですね。

中学2年生の時に腰を故障して、大会を棄権することも。新体操から心が離れてしまい、「辞めたい」と思った時期がありました。そんな中で、学校の先生や両親の支え、過去に書いた自分の卒業文集や練習の反省ノートに背中を押されて、新体操日本代表のオーディションを受けることに決めました。もし受かったら何が何でもオリンピックの舞台に立つ、そこで選ばれなかったら新体操を辞めよう、そういう覚悟で臨んだんです。ある意味それが良かったようで、オーディションでは「どんな失敗をしても、どんな自分をさらけ出しても、受からなかったら自分はこの新体操の世界にはいなくなるんだから」といい意味で開き直ることができました。そこで日本代表に選ばれ、初めて「ジャパン」って書いたジャージに袖を通した時はすごく嬉しくて、写真を撮ってすぐに家族に送ったのを覚えています。

―2012年には新体操日本代表としてロンドン大会の出場を決めました。夢だったオリンピック出場が迫って、どんな気持ちでしたか。

オリンピックの出場を決められたのはもちろんすごく嬉しかったのですが、当時は嬉しいという気持ちをすぐに押し殺していました。日本がオリンピックに出場できる権利は手に入れたけれど、新体操日本代表は当時10人弱いて、その中でオリンピックの団体に出場できるのは5人だけ。私はレギュラーメンバーには入っていましたが、絶対的な存在とは言えなかったので、そこで喜んでしまうと気の緩みでレギュラーチェンジが起こりかねない、と思ったんです。嬉しい気持ちがある一方で、「ここから!」と気持ちを切り替えたのを覚えています。

―ロンドン2012はどんな印象でしたか?

ロンドン2012は、すごく一瞬で終わってしまった気がしました。それまで、1日8~10時間の練習に団体メンバーとの共同生活、いわゆる同い年の子たちが経験するようなことはしないで、ずっと新体操のために生活してきたんですけど、演技の時間はたったの2分半しかない。「ああ、一瞬で終わっちゃった」という気持ちでした。初めてのオリンピックで、当時チームでは最年少だったこともあり、余裕がなかったんですね。ただそんな中でも楽しいという思いはあって、終わってすぐに「4年後も出たい」と思いましたね。

―ロンドン2012では団体7位に入りましたが、この結果についてはどう感じましたか。

当時、日本の新体操はオリンピックの出場権を得るのにも苦戦している状況だったので、そんな中で決勝に残り7位に入れたことは、当時の新体操界に貢献できたのではないかと思います。

実はロンドンの直前にはすごくいろんな事があったんです。当時の代表チームには北京に出場した選手が2人残ってくれていたのですが、そのうちの1人の選手がロンドンの直前に大けがをしてしまって、メンバーを入れ替えることになったんです。さらにロンドン入りしてから曲を変えることになったりして。そのような状況下でも、やれることはやれたのかな、と思います。

―オリンピック直前のハプニングやトラブルですが、動揺しませんでしたか?

私は日本代表に入った直後にロシア合宿に参加したのですが、その中でタフになったのか、トラブルに動揺しなくなっていたんですよ。新体操王国のロシアで練習させてもらえることにはすごく感謝しているのですが、やはり日本と違うのでいろんなことが起こるんです。水道をひねると赤いお水が出てきたり、シャワーのお湯が出なくなって、髪の毛だけ必死で洗ったり。新体操は体型維持にも気をつけなければならないのですが、海外では朝ごはんに油につかったパンケーキが出ることもあり、みんなでナプキンでギューギューしぼりながら食べたこともありました。本当にいろんなハプニングがあって、でもそれがある意味、競技場での色々な出来事にも対応できる力につながったのかなと思います。

Rio 2016
写真:Enrico Calderoni/アフロスポーツ

―二度目のオリンピックとなったリオ2016は、どんな気持ちで臨みましたか。

ロンドンでは最年少だったんですが、リオではチームの中で上から2番目の年齢で、一度オリンピックを経験しているので、今回初出場する選手たちにいろいろと伝えなければならない立場でした。

リオのチームになった当初キャプテンをしていたのですが、当時はとにかくチームをまとめないと、ロンドンよりいいチームにしたい、なんとかしなきゃと、周りをどうしようかと考えるあまり、自分自身が見えなくなっていました。そのうちに、気づいたら周りの選手も自分から離れていってしまって。当時私は二十歳で本当に子どもだったなと思うのですが、その離れていっていることを感じながら、「別に自分も一人じゃないもん」と変に強がってしまって。練習が終わったらすぐに自分一人になって、お休みの日も一人で過ごしたりして、変な意地があったんです。そんな時、それを見ていた(強化本部長の)山崎浩子先生から一言、「相手は自分を映す鏡だから、相手に変わってもらおうと思わないで、まずは自分を見つめ直しなさい」と言われて、はっとしたんです。

そこから「自分が変わらないと」と思って、チームメイトとコミュニケーションを取るようになりました。相手に思っていることを伝えてもらって、私も自分が思っている事を伝えて、謝りました。そうしたら変化はすぐでしたね。私はその後キャプテンを降りたのですが、今考えるとこの経験がすごく良かったんです。当時キャプテンとして周りの選手にどうして欲しかったかということを感じていたので、その経験から、いいチームを作る上ではメンバーの一人ひとりが、自分がチームでどんな立ち位置に立てばいいのかを考えることが大切なんだっていうことを学ぶことができました。それがあったから、リオではチームの団結力がさらに強まったと思います。

引退した今は、いろいろな方と出会って、いろいろなお仕事をさせていただいていますが、やはりキャプテンをしていたときに山崎先生からもらった言葉は常に考えるようにしています。きっと私が、自分が見えなくなりがちだから山崎先生がかけてくださった言葉だと思うので、自分にとって必要な言葉だったと思います。

Rio 2016
写真:田村翔/アフロスポーツ

―リオ2016の直後には引退を発表しました。決断の背景にはどんな思いがありましたか。

リオは引退を決めての出場だったので、オリンピックの舞台で感謝の気持ちを伝えるしかないと思って臨みました。やはりオリンピックの舞台で感謝を伝えることが、競技をしてきて支えてくださった方への一番伝えやすい方法だと思っていたので、「うまくやろう」じゃなくて「感謝の気持ちが伝わる演技をしよう」という思いでした。

引退を決断した理由としては、もともと中学2年生の時に痛めた腰が完全に治った状態ではなかったので、体と、あとは気持ちの部分が大きかったと思います。例え体に爆弾を抱えていたとしても、強い気持ちがあればどんな状態であってもできると思うんです。ただ、新体操をやるからには大きな目標であるオリンピックを目指してやりたいという思いがあったので「あと4年出来るかな」ということを考えた時、引退という決断に至りました。

―オリンピック出場などを通じて、他競技の選手と交流する機会もあったかと思いますが、これまでどんな選手から影響を受けてきましたか?

言葉をもらったとかではないのですが、同い年のバドミントンの奥原希望選手や、スピードスケートの高木美帆選手とは高校1年生の頃から交流があります。プライベートで女子トークをするような仲なので、休みの日や練習が終わったあとにおしゃべりして「明日もがんばろう!」っていう気持ちになって。そういう時間が気持ちをリセットする時間でもあったので、大切な存在だったと思います。

奥原選手は引退した後に取材させてもらって、その後、一緒に食事に行ったんですけど「場所が変わっても頑張っている姿が見られて良かった」って泣いてくれて。「なんて優しい良い子なんだ!」って感激しました。

Rio 2016
写真:田村翔/アフロスポーツ

―引退後は、スポーツキャスターやモデルなど様々な活動をしていますが、今後どのような活動をしていきたいと考えていますか。

現役当時は新体操が大好きで、好きだから「努力しよう」って思わなくても体が動いちゃう、という感覚だったのですが、社会に出て仕事をし始めたら、そう思えるものに出会うことはすごく大変なんだなって感じて。改めて自分にとって新体操に出会えたことは本当に幸せなことだったんだなと感じました。今後については、今はまだ大きな目標はないのですが、目の前の小さな目標に向かいながら、新体操を始める前の自分に戻ったらいいのかなと思っています。ありがたいことに今はいろいろなお仕事をさせていただいているので、その中で新体操のように「ああ、楽しい、これやりたい!」って思えることを見つけられたら良いのかなと思います。

―東京2020では、新体操ファンにどんなことを期待してもらいたいですか。

今、新体操は乗りに乗っていて、今年アゼルバイジャンで行われたW杯では団体が総合優勝したのですが、これは少し前には考えられないくらいのことです。かつてロシアは日本にとって雲の上の存在だったのですが、今ではそのロシアをライバルと言えるくらいの位置に日本は来ていると思います。選手は今のままでやっていれば、東京2020でも団体でメダルを狙えるのではないかと思います。

東京2020で観戦する方には、ぜひ新体操の世界観を感じてもらいたいと思います。芸術スポーツは、選手が伝えたい気持ちを会場の皆さんが共に感じてもらえるスポーツ。演技を通じていろんな世界に連れて行ってもらえて、いろんな感情を共有できるんです。例えばリオ2016では演技にサンバの曲を使う国が多く、ノリのいいブラジルの観客の方は一緒に踊りながら試合を観戦してくれて。さらに国によっても演技の雰囲気が違うので、そういったところも感じながら観戦してもらえたらなと思います。採点競技は難しいイメージを持たれがちですが、ルールは知らなくてもいいと思います。新体操は、舞台を見る感覚で観戦してもらえたら、楽しんでもらえるのではないかなと思います。

インタビュアー:横田泉