東京2020オリンピック・
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見どころ紹介

スペシャルインタビュー
有森裕子

バルセロナ1992で、日本女子マラソンに史上初の銀メダルをもたらした有森裕子さん。続くアトランタ1996でも銅メダルを獲得。その後の会見で語られた「初めて自分で自分を褒めたいと思う」という言葉は、その実績とともに注目を浴びた。その後はプロランナーの草分けとなり、マラソンランナーの新たな道も示している。そんな有森さんに、二度のオリンピックそれぞれへの思い、そして東京2020のマラソンの展望などを聞いた。

「ジンクス破ってやる」の思いから生まれた日本記録

―陸上との出会いについて教えてください。

陸上との出会いは、中学時代。これといって得意なことがなかった中で、運動会で走った800メートル走の結果が良かったので、高校に上がる時は陸上部に入ることにしました。私立の女子校に入ったのですが、当時私は陸上で実績がなかったので、完全に「お呼びじゃない」状況。でも他に得意なことがなかったので、半ば押しかけるようにして入部しました。

―大学を卒業後はリクルート陸上部に入部し、1990年には、マラソンを始めてわずか1年で出場した⼤阪で開催される⼥⼦の国際⼤会 で、初マラソン日本最高記録を出しました。さらに翌年の同大会では日本記録を更新していますが、当時はその手ごたえをどう感じていましたか。

実は初マラソンの時は足に痛みがあって、調子は良くなかったんですが、練習をしていた分の結果が出たのかなという印象です。ただ、初マラソンの後に「1回目がうまくいくと、その次は絶対に失敗するジンクスがある」と周囲から言われ、それが頭にきてしまって。「そんなジンクス破ってやる!」という思いで翌年は出場しました。オリンピックを意識したのは、この2回目のマラソンで日本記録を出した時ですね。「世界は遠くないのかな」と感じることが出来、オリンピックが夢ではなく目標になりました。

―その後は世界選手権で4位に入った実績などから、バルセロナ1992でマラソン女子の日本代表に選ばれました。当時、代表選考は注目されましたが、内定が決まるまではどのような気持ちでいましたか。

自分たちでどうこうできる問題ではなかったのですが、ただ、所属する会社や家族が大変な思いをしているのが嫌でした。私自身は、当時はメディアから流れてくる情報を、ただ淡々と見たり、受け流したりしている状況でした。代表に内定した時は、喜んでいいのかわからず、親に電話で「喜んでいいのかな」と聞くぐらいの状況でした。周囲の感情が分かっていたので、喜んではいませんでしたね。その後はアメリカで練習に入ったので、気持ちを切り替えて臨みました。

アクシデントだらけだったバルセロナ1992

―バルセロナ1992はどういった心境で迎えましたか。

実は、バルセロナは大変だったんです。現地に入ってすぐに足が痛くなり、シューズを変えてもらったり、直前まで針治療をしてもらったりしていました。さらにレース当日にはコンタクトを片方落としてしまったんです。視力は0.05以下なんですが、片方だけコンタクトをつけて走ることになってしまって。でも色々なことがあってすごくバタバタしたせいか、次第に足が痛いのも忘れ始め、スタートラインに立つ頃になると、目が片方見えにくいことも忘れてしまうほど集中していました。ゴールして銀メダルを獲得したときは、純粋にうれしい気持ちでしたね。

Barcelona 1992
写真:日刊スポーツ/アフロ

―メダルを獲得して帰国した時はどんな心境でしたか。

帰国して飛行機から降りるときに、「メダリストはメダルをかけて降りてください」と言われたので、メダルをかけて空港の通路に出ると、並んでいた報道のカメラマンが一斉にシャッターを切ったんです。その瞬間に「本当にメダルを獲ってきてよかったな」と痛感しました。「これでもし獲れていなかったら……」と考えると、メダルが防弾チョッキのように感じました。行く時と帰る時の周囲の表情の変化、それは当たり前のことではあるんですが、その変化を目の当たりにしたときに、嬉しさ半分、怖さ半分、という気持ちでした。

Barcelona 1992
写真:毎日新聞社/アフロ

周囲の目を向けてもらうために必要だったオリンピックのメダル

―その後、次のアトランタ1996を目指すモチベーションになったのはどんなことだったんでしょうか。

当時、オリンピックを目指すつもりはなかったんです。強くなりたいという気持ちはあったんですが、それはオリンピックに限ったことではなくて。

実はバルセロナが終わった次の日に、監督に「有森、次は駅伝な」と言われ、それがすごくショックでした。私は、バルセロナの後は新しいスタイルで陸上に取り組むことを思い描いていたのですが、周囲はオリンピックが終わったら、実業団で元通りに活動するものだと思っていたんです。当時、女子は実業団に所属するメダリストがいなくて、次の展望の描き方に前例もなく、それは当然といえば当然なんです。でも私はメダリストになっても状況に変化がないことに、ショックを受けていました。

当時、メダリストは引退するか、元の活動に戻るかの二つの選択肢しかありませんでした。その能力を活かして個人で何か展望をもって世界に向かっていくなんていうことを誰も考えていなかったんです。私は、こういうトレーニングをして、海外に行って……と色々と思い描いていたのですが、周囲にはそれを共有する相手がいなかったんです。

そうこうしているうちに調子を崩し、時間だけが過ぎていきました。メダリストって、時間がたつとだんだん世間から消えていってしまうんです。次のメダリストが出たら、その前のメダリストは当たり前に消えてしまう。でも、今自分が抱いている考えを世の中に問うて、自分の生き方を前に進めるためには、もう一度こちらに周囲の目を向けてもらう必要がある。そのために何が必要かというと、それはもう無条件で、オリンピックのタイトルなんです。それを持った人でないと、話を聞いてもらえない。私は走ることで生きていきたい。その道をつくるためにはもう一回オリンピックに出て、何色でもいいからメダルを獲らなくてはならない。だからこの時のオリンピックは、私にとって「行きたい」ではなくて「行かなくてはならない」だったんです。私の次の生き方を切り拓くために。

銅メダルを獲得した時は自分でかけたプレッシャーに勝つことができたので、あの「初めて自分で自分を褒めたい」という言葉通りの思いでした。自分で自分に納得できた、とても静かな喜びでした。

―ご自身のキャリアを振り返って、マラソンの魅力はどんなところにあると感じますか。

マラソンだけの魅力だなと感じるのは、アスリートも一般の人も、大人も子供も、男女も関係なく、同じ日に同じスタートラインに立てるということ。他の競技では絶対にできないんです。これはアスリートが社会にコミットしたいと思った時に、一番それがしやすい競技だということでもあります。大会の場でアナウンスすることは、年齢や性別を超えた多くの人に伝えることができる。それも観客と選手という関係ではなく、同じ立場で一緒に体験を共有することができるんです。あれだけの人数が一度に同じ体験を共有できるというのは、マラソンの大きな魅力だと思います。だから、これ(マラソン)を手段に生きていこうとした時に、本当にやってきてよかったなと思いましたね。

Atlanta 1996
写真:AP/アフロ

東京2020は社会に何を残せるかが重要

―東京2020ではどんなところに注目していますか。

東京2020は単にスポーツの祭典というだけではなく、社会に対して意味を持つということが重要だと思っています。スポーツは健全な社会の一部として存在していて、オリンピックはさらにその一部。だからオリンピックにも、そこに社会的な意義があることが大切です。

海外のマラソンの大会を見てみると、独立記念日であったり、病気のチャリティーのためであったりと、それぞれの成り立ちには社会的な要素が絡んでいます。多くの大会ではチャリティーをすることが当たり前になっており、海外ではマラソンを走ったと言うと「どこのチャリティーをしたの?」というのが自然な会話の流れなんです。

だからスポーツの社会的な意義を問うということは、東京2020でものすごく求められるようになると思います。東京2020で社会に何を残せるか、何を伝えられるかということが重要だと思います。

―東京2020のマラソン女子代表には、現時点で前田穂南選手と鈴木亜由子選手が内定しています。それぞれの選手の強みはどういったところでしょうか。

前田選手ですが、彼女はいい意味で固定観念がない選手です。自分の感覚、やり方で、その場その場で起きたことに順応できるんです。マラソンというのは確定要素のない競技。同じなのは42.195キロという距離だけで、あとはコースも大会によって違うし、天候も、走る人数も、時間帯も違う。なので、マラソンにおいては「決めごと」を持つことが一番よくない。確定要素を持たずに、その時その時に応じていくことが重要なんですが、彼女にはその能力があると思います。

鈴木選手は、走る能力の高い選手ですね。そしてものすごく頭がいい、賢いタイプの選手。変に浮かれることがなくて精神的に落ち着いているタイプですが、ただ、レースの直前になると過剰に緊張するところがありますね。今のところプラスに働いていることが多いようですが、今後はどうなるかというところがポイントになりそうです。

北海道の街全体が、競技場のようなエネルギーを持った場所であってほしい

―マラソンはコースが東京から北海道に変更され、大きな話題になりました。このコース変更はレースにどんな影響を与えると思いますか。

北海道になったことで、東京のスタート直後の下りとゴール前の上り、そして夏のあの暑さを回避することができます。これは海外の選手にとって有利に働くことが多いですが、日本の選手にとっても東京よりは楽になっている部分があると思います。レース展開としては高速レースになるのではないでしょうか。

とはいえ、マラソンは確定要素のない競技ですから、レースの条件に順応するというよりは、レースを走る「その日」に順応することが重要。どんな状況でもOKと思える練習をすることが大事ですね。

―東京2020でファンにはどんなところに期待してほしいですか。

みんなに応援してほしいですね。今回コースが北海道に変更になったことで、色々な声が上がりました。確かに、ここに至った経緯は良くなかったと思いますし、今回のことは絶対に忘れてはいけないくらいの出来事だと思います。ただ、どこでやろうと選手は一生懸命走るんです。こういうプロセスを踏んだ中でも、選手がそれを乗り越えて一生懸命がんばる姿を楽しみにしていただきたいと思います。

マラソンのゴールを競技場にできないというのは、選手にとってはショックな出来事です。ただその分、北海道の街全体が競技場のようなエネルギーを持った場所であってほしいと思いますし、みなさんにも応援してほしいと思います。私も、全力で応援します。

インタビュアー:横田泉