東京2020オリンピック・
パラリンピック&55競技

見どころ紹介

スペシャルインタビュー
小椋久美子

バドミントン女子ダブルス代表として国内大会5連覇を果たし、北京2008オリンピックを経験した小椋久美子さん。トップを走り続けた一方で、そのキャリアは葛藤の連続でもあった。
その場を踏んだアスリートだからこそわかる、オリンピックの重圧と喜び。バドミントンへの愛。そして東京2020オリンピックへの展望とは?

しぶとい性格が後の競技人生につながった

―バドミントンを始めたきっかけを教えてください。

私がバドミントンを始めたのが小学校2年生の時。地元が三重県の人口1万人ほどの小さな町で、女の子が出来る競技がバドミントンとバスケットボールしかなくて、姉と兄が先にバドミントンを始めていたので、それについていくようになったのが入り口でした。
元々、男の子っぽい性格もあって、本当はサッカーをやりたかったのですが、兄妹でできることもあってバドミントンを選びました。
最初からすぐにコートに入るわけでなくて、シャトルの扱い方や基本的な動きをコート外で練習するので、半年ぐらいは屋外にいた記憶があります。なので、初めてコートに入ってシャトルを受けた時の喜びはひとしおでした。すぐに好きになりましたね。
また姉と兄が練習相手になってくれましたし、私としても負けたくないという存在がすぐ傍にいてくれたのは、環境としても恵まれていたと思います。
私は4兄妹の中でも特に負けん気が強く、怒られてもへこたれないしぶとい性格もあって、母からも1人だけ変わっていたと聞かされています。兄妹3人はバドミントンを高校までしかやっていないので、今考えると、私のそういう性格が後の競技人生に繋がったのかなと思っています。

―バドミントンのどのようなところに魅力を感じましたか?

1つに試合に勝てるようになったということもありますが、相手をフェイントで引っ掛けるだまし合いの要素や、オープンスペースに決めたときの爽快感、また相手が取れないと思ったライン際のシャトルを拾えた瞬間など、色んな魅力が詰まったところですね。特に一つ一つのプレーに食らいついていくのは性格に合っていると思います。

写真:©2008 - IOC/築田純/アフロスポーツ - All rights reserved Beijing 2008

この人には一生勝てないと思った

―後にペアを組む、潮田玲子さんとの出会いについて教えてください。

初めて対戦したのは小学6年生の全国大会でした。今まで受けたことのない大人びたショットを打ってきて、こんな選手がいるのかと衝撃を受けるほどでした。全く反応ができなくて、次にどこを狙ってくるのかも予測もできない。自分が全く動けない状態で試合が終わったなという印象でした。
大雪の影響で停電となり、試合が中断したのですが、私は身体が冷えないように、必死で動かしていたのに対し、玲子ちゃんは座りながらストレッチをする程度。いざ、試合再開したら全く歯が立たず、この人には一生勝てないと思うぐらいでした。
中学の全国大会で初めて会話をした時に、当時の話をしたら、彼女は停電の時の対戦相手ぐらいにしか覚えていなくてそれもまたショックでした(笑)
気合と根性でバドミントンをやってきた私にとっては技術の大切さを改めて見せ付けられたし、色々な意味で新しい世界を教えてくれました。ある意味、一つの“壁”でしたね。

―ペアを組むようになった経緯については

中学まで玲子ちゃんは雲の上のような存在で、倒して日本一になれるとは思いもしませんでした。
自分は全国でも2番手、3番手ぐらいかなと思うくらいでしたし、将来は保育士になろうと思っていたので、選手として身を立てていこうとは考えてもいませんでした。でも大阪の四天王寺高校から推薦を頂いて、地元を離れる決断をしたことが一つの転機となりました。
スポーツが強い強豪校だったので、何度も辞めたいと思うぐらいに練習はハードでしたが、年に数度の全国合宿でまた玲子ちゃんと再会できて、今まで遠かった存在と一緒に汗を流せる環境が私を大きく変えてくれました。それまでは全国大会優勝なんて考えたことはありませんでしたが、私の高校では優勝以外評価をされないんですよ。当然重圧もありましたが、そういった環境にいることで、自然と優勝したいという気持ちが強くなったことも大きいと思います。
転機としては高校1年生の時、ジュニアのナショナル合宿で初めて玲子ちゃんとペアで組むことになったのですが、シングルスに専念していた私が、玲子ちゃんと組んで先輩のインターハイ優勝ペアに勝ってしまい勘違いしたんでしょうね(笑)それがダブルス転向の大きなきっかけとなりました。1対1のシングルスは試合を自分で組み立てながらポイントを決める楽しさもありましたが、ダブルスは自分が崩した返球をパートナーが決めてくるという楽しさがありました。自分がパートナーを動かしているし、パートナーも私の動きを考えてプレーしてくれる、いかに互いに寄り添って、2人で一つのプレーを作り上げるところに惹かれました。たとえ2人とも強い選手でも、歯車が嚙み合わないと勝てないのもダブルスの難しさであり魅力ですね。

文通で口説き落としました

―高校卒業後に、同じ実業団に入ろうと潮田さんを説得されたとか?

高校の時からすごく仲が良かったので、良く文通をしていました。卒業後もペアを組みたいと願っていたのですが、私はすでに大阪の実業団に進むことを決めていて、またバドミントンは違うチーム同士だとペアが組めないことが多いこともあって、一緒に大阪に来てくれないかと懇願しました。当時彼女は大学や実業団からいくつもオファーがあったらしく、だいぶ時間はかかりましたが、大阪行きを決断してくれました。恐らく、内定式のギリギリまで悩んだのではないでしょうか。
全日本ジュニアの合宿でしか一緒になれなかった彼女と何よりも同じ練習環境にいられることが嬉しかったですね。入社してしばらくは2人ともシングルスも平行して練習していましたが、私は3年目、玲子ちゃんは4年目でダブルスに専念することになりました。

怪我が気付かせてくれた慢心

―アテネ2004オリンピックでは初のオリンピック出場を目指しましたが、怪我に泣かされます。

バドミントンの日本代表選考レースではアテネ2004オリンピック前年の5月から翌年4月までの世界大会を転戦してランキングを上げていくことが求められるのですが、私はそのレース直前に足の指を骨折してしまいました。普通の生活さえできないほどの激痛で手術をすれば復帰まで半年かかると言われました。手術をする決断がなかなかできなくて、迷いに迷ったのですが、信頼しているコーチから『怪我には理由があるんだよ』と言われてハッとしました。その理由を考えたときに、ジュニア時代から純粋にバドミントンを好きという気持ちだけでやってきたけども、社会人になってから全国大会で優勝するようになってからどこか慢心というか過信があったのではないかと。体重など自己管理も含めてきちんと出来ていなかったことを痛感しました。それは人に対しての接し方にも現れていたかも知れません。もしあの時、怪我もなくアテネ2004オリンピックに出場できていたら、簡単に行ける場所だと思っていたはずです。そのコーチの一言で手術をする決意ができ、リハビリを経て残り半年間は選考レースを経験することができたのですが、怪我を負いながらギリギリの精神状態でも必死になってプレーをしている先輩たちの姿を見ていると、これぐらい本気になって、出たいという気持ちを前面に押し出さないと、オリンピックには出られないのだという事を肌で感じました。
オリンピックに出場したいという自分の言葉がなんて軽かったのだろうと。何もかも犠牲にしてまでもその場所に立ちたいという覚悟が全然足りていなかったに気付かされました。
そこからは玲子ちゃんと話して4年間を突っ走ろうと決意を固めて、まずは日本最強のペアになるという一つの目標が出来ました。覚悟を持って日本一になったことで、日本代表としての責任や、追われる側のプレッシャーも自分たちに課すようになるなど、大きな意識変革をできたことは、あの怪我があったからこそだと思います。

写真:©2008 - IOC/築田純/アフロスポーツ - All rights reserved Beijing 2008

オリンピックに出たという記憶も消したかった

―最初で最後のオリンピックとなった北京2008オリンピックでは5位入賞という結果でした。

選考レースでは優位なポジションにいたのですが、正式に出場権を取るまでは安心していませんでした。元々、オリンピックに出てメダルを取ることを目標にしていたので、5月に代表に決まったときは、やっとスタートラインに立てたという気持ちが大きかったです。でも本当にメダルが取れるのだろうかと不安も同時に襲ってきました。8月の北京2008オリンピックを前に残り3ヶ月間で何ができるのだろうと考えたときに、やはり誰よりも練習を積んできたという自信が不安の解消になってきたことを思い返して、とにかくやれることは全てやろうと、追い込みました。
でもオリンピックという舞台に一度も立ったことがないので、どんな場所かが想像できない。
先輩たちに話を聞いても『あそこに立ってみないと分からない』という返答だけでした。
周囲の期待に応えないといけない重圧も日々大きくなっていく中、とにかくやらなきゃという気持ちだけが先行してしまい、身体の悲鳴に気付くことができず、結果として3度、腰を痛める結果となりました。3ヶ月間でやりこむ事で自信をつけるどころか、不安を大きくしただけでしたね。
そのまま迎えた北京2008オリンピックの舞台は、先輩が言っていたように、独特の緊張感がありました。その空気に飲み込まれてしまい、頭は真っ白。何をやっていいのか一切分からない状態で、試合がいつ終わったのかも覚えていないぐらいでした。いまだにその時の映像は観られないです。
試合中に苦しいと思ったのは、あとにも先にも初めてで、頑張ってきた時間はなんだったのかという失望と、力を一切出せなかった苦しみ、悔しさだけが残った場所でした。
北京2008オリンピック閉幕後、しばらくはオリンピックに出場した記憶すら抹消したくて、オリンピアンという肩書きも取っていましたが、2010年に引退して取材する立場でロンドン2012オリンピックを観ることになったときに、ロンドンの美しい街並みに設置されたマラソンコースを見て、ふと、ここを走る選手たちはすごく幸せだろうなと感じました。その時に“幸せ”という言葉をかみ締めながら、この舞台に立てるだけでも幸せだったんだなとようやく思えるようになりました。北京2008オリンピックでは、メダルを取るという目標に囚われていて、それまでの4年間の成長を認めることが出来ていなかった。自分を信じてあげることができなかったからこそ、あれだけ追い込むことになってしまったのだと思います。時間は掛かりましたが、そういった事も気付かせてくれたのもまたオリンピックだったというのも不思議ですよね。

―小椋さんにとって北京2008オリンピックとはどんな場所でしたか?

色んな感情をもたらしてくれた場所ですね。重圧、恐怖、不安、後悔などネガティブな感情もありましたが、幸せも感じることが出来ました。

心理戦であり、パズルの要素もある

―バドミントンの魅力について教えてください。

羽根突きのイメージを持たれがちですが、想像以上の打球音など、その迫力は一度、観てもらわないと分からないと思います。息を飲むようなラリーなども魅力の一つですね。
高度の駆け引きが求められる競技性は、将棋のような心理戦の要素もありますし、相手コートの空間を狙う側面はパズルにも例えられますね。また15点以降の勝負どころになってギアを上げる瞬間などは観ていても面白いと思います。

メンタル面さえ準備できれば、メダル獲得の可能性も

―東京2020オリンピックのバドミントン競技の展望、また注目したい選手を教えてください。

男子シングルスは桃田賢斗選手ですね。遠征先での不運な交通事故により怪我を負ってしまいましたが、強い精神力で見事に復帰を果たしました。金メダル候補の筆頭として重圧もあるとは思いますが、試合で積み上げた勝負どころの強さと、冷静な自己分析力。またマイナスな状況でも勝ちあがってきた実績もあるので、焦りさえなければ良いパフォーマンスが出せると思います。大切なのは東京2020オリンピックに向けたメンタルの作り方ですね。それがうまくできれば金メダルに一番近い選手です。
現在は世界のレベルが拮抗してきているので、有力なメダル候補を挙げるのは非常に難しいですが、日本は4つの種目(男子シングルス、女子シングルス、男子ダブルス、女子ダブルス)で、オリンピック独特の空気に呑まれなければ、メダルを取れる可能性もあります。昨年ファイナルズという大きな大会で日本は世界ランク1位の選手に、4種目とも勝つことができました。

写真:毎日新聞社/アフロ

―現在の主な活動であるバドミントンを通じてのスポーツの普及活動と今後の目標について教えてください。

全国を回って、子供たちや初心者にバドミントンの楽しさを伝える活動をしています。バドミントン以外でも親子参加型のイベントなど、スポーツを通して絆を深めてもらう活動をしています。
子供には楽しい、飽きないという気持ちが大切なんですね。スポーツは面白い、続けたいというきっかけを作ってあげたい。2011年の東日本大震災の後に、スポーツメーカーさんと協力して、子供たちにバドミントンを楽しんでもらうボランティア活動をしていたのですが、その時に参加したお子さんが、今、バドミントンを続けてくれている事を知って、改めてスポーツが人生に与える影響力の大きさを実感しました。現在の活動が誰かの心に寄り添うことができて、人生の先に導く道標となってくれたら嬉しいですね。

インタビュアー:小笠原大介