デニス・テン選手|2012-2013シーズン インタビュー|キヤノン・ワールドフィギュアスケートウェブ

インタビュー - Interviews -

デニス・テン選手
インタビュー

文・野口美恵(スポーツライター)

カザフスタン初の世界選手権メダルを手にした19歳のデニス・テン。
練習環境の整わない母国からロシア、アメリカと長い旅を経て、銀メダルにたどり着いた。
これまでの努力の日々、そして今後の夢を語った。

「自分が一番驚いてる」ベストを尽くした世界選手権
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自身初のそしてカザフスタン初のメダル。おめでとうございます。

長年の夢が叶いました。フィギュアスケート界にとっては小さな勝利ですが、母国は大騒ぎで国を挙げて喜んでくれています。フランク・キャロルコーチ、振付師のローリー・ニコルに心からお礼を言いたいです。

ショートで2位発進。その会見でも大喜びでしたね。

信じられないくらい嬉しかったです。91.56点って掲示板に出た時は、90点を超えるなんて想像してなかったし、パトリックを残してその時点で首位。皆もびっくりしたと思いますが、僕が一番びっくりしました。ショートのメダルもカザフスタンにとって初。記者会見に出ただけで名誉だと思いました。フリーに向かって気持ちを切り替えなきゃと思う一方で、寝るのがもったいなかったです。

どうやってフリーに切り替えましたか?

すごく興奮して、2日間で計2時間しか寝れませんでした。でも氷に乗ってからは、2位ということも、今季は怪我で練習できなかったことも忘れて、自分はただのスケーターである、と考えるようにしました。フレッシュな新しい一日だと考えました。2位発進というのは、危険な誘惑でしたから。

銀メダルで喜んでいますが、あと1点で優勝だったんですよ!

点数はとにかくびっくりです。まず演技が終わった時は、さあ表彰台に残れるかな、なんて考えていました。点数を見て「おおフリーは1位だ、やった」って喜んで、総合点が出たらあと1点でパトリックを抜いてる点数。まさか、としか思えませんでした。あと1点上回る演技が出来るかって言われたら、自分のベストは出し尽くしたので、今回はこれ以上は望みません。銀メダルで本当に嬉しいです。

怪我に悩まされた今季「ゴールは世界選手権」
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今季は怪我に悩まされ大変なシーズンでした。

今季は一言で言えば災害という感じでした。右足首の怪我があって、12月はまるまる休み、1月もまた練習できない時期がありました。そんな訳で精神的にも落ち込んでしまって、やる気が出ずスケートと向き合えていない時間がありました。大会に出ても自信が無いし、怪我よりも精神的に参っていたと思います。

2月の四大陸選手権で12位と惨敗してから、世界選手権までわずか3週間。人が変わったようですね。

四大陸選手権に出たのは別の人なんです。いや冗談です。大阪の四大陸選手権はひどい成績で、そのあと2日間はもう何もやる気が起きませんでした。でもフランク・キャロルコーチが言ったんです。「ゴールは世界選手権だ、まだゲームオーバーじゃない」と。それで、最後の3週間はすべての気持ちも練習も変えました。

どんな変化があったのでしょう?

まず氷上練習の時間を延ばしました。そしてダイエットをした。体を改造したと言ったほうが良いですね。自宅のガレージに筋力トレーニングの器械があるのですが、ここで氷上練習のあと夜中の10時まで毎晩、自主トレーニングをしました。これはコーチも知らないことです。どんどん体が変わっていくのを実感しました。そして精神的にも、3週間毎晩ずっと世界選手権の夢を見ました。悪夢も良い夢も。ベッドに入っても気持ちが休まらないので拷問って感じでした。

すごい練習量と精神状態だったんですね。

これで結果が出なかったら、もう僕は終わりだ、絶望的だ、と考えていました。それくらい練習したってことです。だからすべての努力が報われて本当に嬉しいです。今回ほど自分が力強いと感じたことはなかったし、調子の悪い間ずっと励ましてくれたコーチにお礼を言いたいです。

ショートとフリーで連続性を、映画『Artist』
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今年のプログラムは挑戦的でしたね。ショートとフリーで同じ映画の曲を使いました。

はい、これは物語が連続している、とても面白いものです。カナダにプログラムを作りに行く飛行機の中で、映画『Artist』を観たんです。面白くて2回観ちゃいました。音楽がスケート向きでとても気に入ったので、これをやりたいとローリーに相談しました。良い曲が沢山使われている映画だったので選びきれなくて迷っていたら、ローリーが「じゃあショートもフリーも『Artist』にしましょう」って。冗談かと思ったし、フランクコーチはすごく厳格な人なので王道から外れることは良くないと言いました。でも2つのプログラムに連続性があるのって面白い試みだし、リスクもあるけどやってみたいと思い、最後は僕の意見で決まりました。

どんなストーリーになっているのでしょう?

映画は、無音映画の人気スターが、落ちぶれて自殺未遂を繰り返し、その後また人気スターになる物語。ショートのステップシークエンスは悲しみにくれて自殺する場面。すごく悲しいドラマです。フリーは、自殺を繰り返した彼が夢を取り戻していくところで始まって、ステップの場面でまた人気スターに返り咲く。最後は人々に愛されるスターになった、というストーリー。苦労して波のある人生だけどハッピーエンドです。だから物語のエンディングを見たかったら、ショートとフリーと2枚のチケットを買ってね、ということです(笑)。

去年に比べて成長した部分は?

去年はジャンプもまあまあ成功して、悪くないシーズンでした。今年はジャンプよりもスケートのスタイルが変わり成熟したと思います。ジュニアの滑りではなく大人の滑りになりました。今までよりも自分の個性を楽に表に出せるようになったし、感情表現も出来るようになったんです。精神的な意味で滑りが変わった、と感じています。

マイナス17度の屋外練習からスタート、モスクワ、北米へ

スケートを始めたのは5才の時でしたね。

あの頃はまだ屋外リンクしかなく、マイナス17度の極寒のなか、ママがズボンを3枚も僕にはかせて、僕はキャベツみたいになってスケートしていました。だから早く上手にならなきゃって思っていました。その後、ショッピングモールの中にリンクが出来て、毎週金曜日に買い物客向けのショーをやるようになり、小さいリンクでしたがコンディションが悪いとも思わず、まったく練習環境に不満は無かったです。

当時はスケートは人気スポーツではなかったと思いますが、始めたきっかけは?

スポーツは色々やりました。テニス、空手、テコンドーなども。でもフィギュアスケートが美しさを追求する競技で、母がそれを気に入っていました。他にも、7歳から5年間音楽学校に通い、少年合唱団の世界コンクールに出場したこともありました。

ロシアに移ったのが10歳でしたね。

9歳の夏に、クリスタルスケートというロシアの試合に招待され、アルトゥール・ガチンスキーなどと一緒に試合をしました。ここでエレーナ・ブイアノワに出会い、夏合宿に呼ばれ、そのままモスクワに残ることになったんです。タチアナ・タラソワとブイアノワのもとで沢山の事を学び、スケート選手としての基礎を築きました。

母国語がロシア語だと思いますが、馴染みのない北米のコーチを選んだ理由は?

タチアナはコーチであり振付師。浅田真央やアデリーナ・ソトニコワなども一緒に練習する素晴らしい環境でしたが、沢山のスケーターがいるので、カザフスタンの国内選手権にはコーチは来てくれないし寂しかったんです。ロサンゼルスに行くのは高い壁がありましたが、フランクが憧れのエバン・ライサチェクのコーチであることが決め手で、ここならチームとして育ててくれると思い、決めました。キャベツから銀メダルまで長い道のりでしたが、長い間辛抱して待ってくれた家族を誇りに思います。

カザフスタンで若手を育成、来季はメダルを
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過去に五輪で活躍したカザフスタンのスケート選手はいますか?

いえ、今まで全く国際レベルの選手はいません。1998年長野五輪に出場した男子選手がいるのですが、ショート28位でフリーに進めなかったんです。2010年バンクーバー五輪で僕がフリーまで進んだのが最初でした。でも練習環境が整ってきたので、今では有能な小さい子達がたくさんいます。母国に帰るたびにセミナーを開催しているのですが、みんな練習熱心だし、才能がある子もいます。まだカザフスタンはスケート途上国だけど、これからは選手がどんどん育つと思います。

カザフスタンではスケートのテレビ番組もあるのですか?

「Euro Sports」を放送してるので、世界選手権もそのほかの試合も観ることができます。だから今回の試合も国では生放送でやってて、大ニュースになったと聞きました。

では来季は五輪です。どんな気持ちで臨みますか?

五輪の前シーズンをこういった素晴らしい成績で終わることは、長年願ってきたことでした。世界選手権はまるでおとぎ話のような展開でしたが、もう次のシーズンに向けて気持ちを切り替えなければなりません。今回は沢山の手紙やメールが来て、ずっと応援してくれていたファンが多かったことが分かりました。色々な方のサポートを受けながら、来季はメダルを狙えるようしっかり練習を頑張りたいです。

2013年3月17日、世界選手権のエキシビション日に取材

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