インタビュー - Interviews -

鈴木 明子選手
インタビュー

文・野口美恵(スポーツライター)

集大成を決意した今季は、波乱のシーズンとなった。13回目の出場となる全日本選手権で初優勝、ソチ五輪では足の怪我を抱えながら渾身の演技、そして世界選手権ではショートで自己ベストを更新した。22年間のスケート人生に区切りをつけた彼女が語る、これまでとこれから。

長久保コーチの“カツ”と努力の歓び 自分に負けたくない気持ちで続けた22年間
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世界選手権はお疲れさまでした。全試合を終え、柔らかい表情になりましたね。

皆さんに言われます。でもアイスショーが続くのでまだ実感はないですね。落ち着いた時にフッと実感するのかも知れません。これからもプロとして滑ることには変わりはないので、スケートをしていくステージが変わるだけです。

長い現役生活。本当によく29歳まで滑り抜いたと思います。

頑張っている自分が好きなのだと思います。だから、何かに挑戦して、例えばジャンプが跳べたり、スピンやステップで色々クリアしたり。そこに快感を覚えていたのかな、と思います。

長久保裕先生の“カツ”も現役続行に効きましたか?

何か練習していたものができるようになって私が満足しても、常に先生は一歩前に行っていました。だから常に叱られていました。でも先生は自分が一歩前にいるべきだと思う、と言っていました。先生が「いいよ、いいよ」と言っていたら成長がそこで止まってしまいますから。だから長久保先生のお陰で、これだけ長く続けてこられたと思います。

引退への気持ちはどう受けいれていきましたか?

昨年にこれが最後のシーズンと決めてからは、気持ちが変わって行きました。これからの時代はもっと難しい『3回転+3回転』を跳ばないと上にいけませんし、今までなら「じゃあ私もやってみよう」と思っていたものが、もうここで良いな、とフッと思えました。

どんな時にふと感じたのでしょう?

周りの方は、もうちょっと続けられると言って下さいますが、自分では分かってきたんです。良い意味で、次に行く時だと。私の場合は悔しさや意地が源になって奮起して、頑張ってきたタイプですが、昨シーズン終わりぐらいから、奮起して努力してもできないことが多くなりました。自分に対して負けず嫌いなので、そういった自分との戦いができないのならば、次は試合じゃない部分で自分と向き合いたいな、と。

五輪シーズンに入る前、引退は怖くないと話していましたね。

そうですね。以前は辞めるのが怖かったんですけど。それだけ選手生活をやり尽くしたということです。次の自分のビジョンが見えてきて、辞めるのが怖くなくなり、むしろ次の人生のスタートと考えられるシーズンでした。

怪我を抱えて迎えたソチ五輪で達した境地 苦悩のすえ「今の自分を受けいれる」
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ソチ五輪は足を怪我して迎えましたが、それでも先生は厳しく接していましたね。

はい、あれは辛かったですね。帰国した後に「本当は先生もすごく辛かった。痛みを代わってあげたかった」と他の方に話しているのを聞いて、何だそうだったのか、と思いました。私の性格を見越して、気持ちが折れないように鼓舞してくれていた訳です。私が、足が痛くてどんどんできなくなっていくと、先生も歯がゆくてどんどん機嫌が悪くなっていく。泣いたり怒ったり、でした。

それでも最後は「できない自分を受けいれる」と話していたことが感動的でした。

「もう怪我と一緒にやるしかない」って決めて、そしたらどんな状況でも「受けいれる」ことが大事だと思ったんです。調子が良くても自分自身を過信しちゃう場合だってあるだろうし。だから調子が悪い時に、全日本選手権みたいな最高の演技がしたいと思っても、できないですよね。やっぱり時は動いているし、その時、その瞬間の演技は一度しかない。28歳の五輪は、28歳の全日本選手権とも違う。その時の自分自身を受けいれて滑ろうと思いました。

「自分を受けいれる」というメッセージは、人生の中でも大事な手法だと思います。悟りを開いたような。

そこに到達するまでには、ソチでも泣いて悩んで大変でした。五輪のショートの公式練習の朝なんてボロボロで、皆さんの前で泣いてましたし。その後、日本の母と電話で話したりしているうちに、結局は今の(怪我をしている)自分が五輪を滑るしかない、と。だから最後は受けいれるしか方法がなかったんです。悟っちゃいましたかね。

フリーの日はもう足に痛みを感じない、とまで話していました。

緊張で感じないというのもあったかも知れません。でもあんなに痛かったのに、氷に降りたら痛みを感じなくて「神様ありがとう」って思っていました。もちろんキス&クライに戻ってきたら痛かったです。本当はベストの体調で五輪に出られるのが一番ですけど、人生そんなに甘くないということだと思います。

髙橋、村上に背中を押され出場を決意 「世界選手権は自分の滑りをしよう」
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その後、世界選手権は辞退しようと思った時期もあったそうですね。

怪我があまりに痛かったので、私自身は五輪で引退、って思っていました。でもソチで女子が終わった2日後くらいにみんなで部屋に集まっていた時に、「テレビ出演用に世界選手権に向けての目標をボードに書く」ということになり、どうしようか迷って髙橋(大輔)君に相談したんです。「この痛みのまま、あと1か月練習はできない、私は頑張れない」と。そしたら「だったらもう頑張らなくていいじゃん、俺ももう頑張れないし」って言われて。私は頑張らなきゃいけないって思っていた。日本で行う世界選手権だから、みんなが期待するし。その時は髙橋君も出る予定だったから、そういう考え方もあるんだ、と。

じゃあ2人とも怪我はあるけれど、とにかく出ようと誓い合ったのですね?

ええ。でも「来年の世界選手権の枠取りはどうしよう」と思いました。ある程度の順位は取らないと。そしたら今度は(村上)佳菜子が、背中を押してくれました。2人でご飯食べていた時に、「私、世界選手権出ないかも」って言ったら「絶対にやだ。カナコと真央ちゃんが頑張るから、アッコちゃんは好きに滑って良いよ」と言ってくれて。すごく頼もしかったですし、佳菜子は五輪ですごく悔しい思いをしたんだな、と分かりました。だから「じゃあ佳菜子に任せていい? 私は好きに滑って良い?」って言って、気持ちを楽にすることができたんです。仲間に本当に助けられました。

そのあと怪我はだいぶ回復されたのですね。

そうです。両足の小指が、親指くらいまで腫れ上がっていたので、五輪後は5日間靴を履かず、ジャンプも1週間やりませんでした。そしたら一気に良くなったんです。靴を履いたら、圧迫するし、ジャンプを跳ぶためにトウをガンと突くし、炎症が治まる訳ないんですよね。今思えば、団体戦のあとスケートを休めば良くなったのかも知れませんが、何日休めば治るのか確証がない以上、五輪期間中に長期休暇を取るのは難しかったです。

みんなに背中を押された世界選手権。出場して良かったですね。

五輪での痛い記憶のままでスケートを終わらなくて良かったです。「靴を履いても痛くない」という当たり前のことがどれだけ幸せなことなのか、というのを実感できました。痛くない、滑れる、幸せだ!って。だから最終的には思い描いていた演技にはならなかったけれど、色々な意味で満足できました。そういう物事の捉え方って、いずれ人生に生きてくると思います。当たり前のことに感謝しようという考え方に、最後の最後に気づきました。

世界選手権の演技を振り返っていかがですか。

ショートは自己ベストが出て最高の演技でした。心のどこかで、フリーもパーフェクトにやって逆転でメダル、なんてことがあればスケート人生として最高かも知れないと思っていたはずなのですけれど、それでもフリーでミスがありながら演技が終わった時に「ああスケートやってきて良かったな」って思えました。こんな満場のファンに囲まれて拍手もらって、ここでスケートを終われるなんて最高だなって。だから、背中を押してくれた髙橋君には、本当に頭があがらないです。

今後はスケートを伝える伝道師に 「ちょっとずつ乗り越えて、前に進もう」
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今後のプロ活動としては、まずはアイスショー?

振付師も興味がありますけれど、まずは日本のショーに。いずれは海外のショーも出てみたいとは思っています。私は29歳まで現役を続けられたぶん、プロ生活はちょっと短くなってしまうかも。どこまでできるかは分かりませんが、できれば長く滑りたいですね。あとは、今からどんどん自分の気持ちも変わるだろうし、自分にどんな変化が起きるかを楽しみに、受けいれながら生きていこうと思います。

ショーとなると、どんな表現を目指して行くのでしょう?

今まで試合だと、採点法に従って色々と決まりがありますよね。でも私の場合は、音楽に合わせて滑るというのがスケートの一番好きな部分なので、さらに音楽と一体化した踊りをしていきたいです。

すでに次のプログラムの構想はありますか?

今年のフリー『オペラ座の怪人』を振り付けて下さったパスカーレ・カメレンゴさんが作るショー用のプログラムを見たいと思います。彼はすごく沢山のアイデアを持っているので。またショートの『愛の讃歌』を作って下さったマッシモ・スカリさんとも、また一緒に何かを作ろうという話をしています。あとはスケート以外の、バレエやダンサーの方ともコラボレーションしたいです。

コーチは大変そうですか?

コーチはたぶんやらないですね。親からは、今まで自分でそれだけ頑張ったから、もうちょっと自分のことを大事にしなさいと言われます。誰かを教えたら責任もあって、自分の人生を大事にしなくなるタイプなので。親にはなるべく心配をかけたくないと思います。

引退して今は開放感がいっぱいですか?

いえ、仕事のスケジュールがいっぱい(笑)。まだ社会人1年目だと思ってやっています。これまでも邦和スポーツランドの契約社員でしたが、やはりスケート場でしたから。本当に世間のことを知らないので、社会人として失礼なことがないようにと思いながら色々と学んでいます。選手の時は、やはり自分の練習と試合を中心に時間を調整するのですが、社会人になると、周りの方と合わせて動かなければなりませんし。

選手時代とは生活も変わりますからね。

服装なんかも(笑)。スケーターの時って練習があるから、普段着もトレーニングウエアのままだし、すっぴんでした。でも普通に考えたら働いている29歳の女の人は、朝に化粧してから家を出るのが当たり前ですよね。ちょっとずつ服装も考えないと。29歳の普通の社会人になろうとしています。

今後、社会人としてのプランもあるのですか?

プロスケーターだけでなく、講演会とか色んな形でスケートの楽しさを伝えていく側になりたいと思います。「スケートを好きな人を増やす」というのが私の最大の目標ですね。子供でもいいし、大人でスケートを始めてみようという方も、あとは見に行くのが楽しみという人も。今のスケート人気を、ブームじゃなくて長く続くものにしたいです。

伝道師のようですね。自叙伝『ひとつひとつ。少しずつ。』を書いたそうですが、やはりスケートの魅力を伝えようというものですか?

スケートを通して学んだ人生の生き方を伝えたいと思いました。これまで悩んで、つまずいて、色々なことが人生にありました。私の悩みを他人に分かってもらえないこともありました。でもそれは多くの方が経験していることですよね。だから「私の場合は、スケートを通して、こういう風に思ったら乗り越えられたよ」というメッセージを伝えることで、何かに悩む方を支えられたらいいな、という本です。私は決して順調なスケート生活ではなかったので、伝えていけることもあるだろうと。私自身がすごくネガティブでクヨクヨする時はありますが、ふっきれた時の強さも知っています。五輪選手でも、色々悩んでるよっていうのを伝えたいです。

この8年間で、ちょっとずつ乗り越え方がうまくなっていると感じていました。

そうなんです。ちょっと進んで、下がって、止まって。私は劇的なストーリーではなく、地味にコツコツやって、結果が出ないこともあって、でもちょっとずつ進みました。それを本のタイトルにしました。ただスケートが好きで、でもそれを諦めずに続けたということ。シンデレラストーリーでもなんでもなくて、普通に好きなことに取り組んできただけだ、ということです。

五輪もバンクーバーとソチを比べると、やはりソチのほうが精神的に大人でしたね。

そう。ちょっとずつ、上がっていった。バンクーバーもソチも8位でしたが、内容は全然違ったから。バンクーバーは最高の演技をして8位、ソチは色々苦しんでそれでも8位。2度出ることで、その違いも感じることができた。だから色んなことはもちろんあったはずなのですが、選手としては本当に恵まれたスケート人生だったなと、自信を持って言えます。

それでは最後に、皆さんに感謝の言葉を。

やはり長久保先生。病気だった時の私に「絶対戻れるから、できるから」って言ってくれて、もうこの人に付いていこうと決めました。それ以来、先生に「絶対に跳べる」と言われれば信じて練習できたし、いつも背中を押してくれました。反抗ばかりしていて扱うのが大変な生徒だったと思いますが、私は先生のお陰でスケートを大好きなまま現役を続けられました。あとは、もう辛いことすべてを一緒に乗り越えてくれた母には、感謝してもしきれないし、私の理想の母です。そして、大学を卒業して時間とお金の問題を抱えた時に、契約社員にして下さった邦和スポーツランドの方々。有名でもなく芽が出るかどうかも分からなかったのに。お陰で夢を諦めずに続けることができました。これは良い例として、私だけでなく全国の大学スケーターが同じようなサポートを受けられる体制作りに繋がって欲しいです。そして多くの支えて下さった方々。本当に皆さん、ありがとうございました。

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