2001特別賞
ARTIST STATEMENT
untitled -study-
自分は誰だろう。日本とアメリカの間、子供と大人の間、ここにいるようでもそこにいるわけでもない。でも、こんな浮遊するあいまいな生き方があっても良いのではないか。今の私はこの写真のようにどこかぼんやりした風かもしれない。カメラは現実を写し出す事ができる不思議な機材。普段見慣れた物を違った視野、角度から見てみる。こんな新しい発見が、写真だから何を考えていたのか理解する。カメラは自分の心の中を写し出して、肉眼で見る事ができる唯一の道具だ。写真は、自分の心を改めて見直せるとても大切な物。写真という表現を使っていつもとは違った目で自分を見て理解していただきたい。
審査評 選:南條 史生
新鮮である。この透明感、明るさ、光。
曖昧なようでいて、すべての形象がなんであるのか判別可能である。大上段に振りかぶったメッセージはない。しかし、作者の視点の明瞭さがある。それは、言葉で説明するような明瞭さではなく、表現の方法に宿っている「ものの見方」のようだ。身の回りの事物をじっと見る。しかしそれは、輪郭がぼやけて揺れて、つかめない。そのような時代なのかもしれない。現代の曖昧さ、不確定性、そして、透明な悪。いや、ここに写っているものが悪だというのではない、時代の気分のことを言っているのだ。対象は部分的にしか現れない。それは、細部を注視しているからなのか、それとも全体が見えない、見たくないからなのか。「YOU CAN MAKE ME HAPPY」というのは、他人に依存する気分なのか。言葉も明るい。手袋も踊っている。暗く不安な時代だから、こんな視点も意味がある。同じように曖昧で、白く曖昧な作品もあったが、そのうちのいくつかは、もう抽象だ。抽象に達するほうがいいのか、具象にとどまる方がいいのか、本当はわからない。どちらも意味があるが、私には、形が残っているもの、何であるか判別できるものの方が、強く見えた。より連想をかき立てられるというか、より様々な意味を感じてしまうというか、意味を問いかけられているような気がする。あるいは「抽象の方がよくありそう」だが、新沢さんの方は「ありそうでいてない」というきわどいバランスの上を行っているような気がした。それが新沢氏をより高く評価した理由だ。でもこの手の作品は基本的に好きです。
PROFILE