INTERVIEW

CLOSE UP|トークショー サンドラ・フィリップス(サンフランシスコMoMA 名誉キュレーター) × 清水 穣(写真評論家)

サンドラ・フィリップス氏と清水 穣氏によるトークショーを開催。
ソン・ニアン・アン氏はなぜグランプリに選ばれたのか? 
日本と海外作家のプレゼンテーションの違いは?
現代写真の目利きであるお二人が、グランプリ選出公開審査会を振り返りながら
グランプリ誕生の背景に迫ります。スマートに意見を交換された約1時間。
その内容の一部を厳選してご紹介します。

写真というメディアは、
芸術のあらゆるメディアを覆い尽くしている

清水:皆さん、こんにちは。今年は審査員ではなくオーディエンスとしてグランプリ選出公開審査会のプレゼンテーションを聞かせていただきました。作品はそれぞれにおもしろくて、プレゼンテーションもスリリングでした。グランプリは、ソン・ニアン・アンさんでしたが、まあ、そうだろうと思っていました。1つにはプレゼンテーションが非常に上手だったということ。もう1つは、さまざまなグレーのグラデーションが美的な意識からではなく、一定の変換の方式、メソドロジーによって出来ている。印画紙という物質によって環境汚染を日々定着したという、そこは非常に納得できたので、多分選ばれるだろうと思っていました。 サンドラさんは、このグランプリの作家についてはどう思われました?

サンドラ:ソン・ニアン・アンさんのブックは、美しく注意深く編集されていて素晴らしかったのですが、そういうブックが必ずしも良い展示になるとは限りません。ブックから壁に展開していくことは非常にデリケートな問題で、概念的だと思います。ですが、ソン・ニアン・アンさんは、他にはないオリジナルな考え方を持っていました。また、写真は、実験的に調査などをすることができる大きな領域であることを示していると思いました。

清水:そうですね。写真というメディアは、芸術のあらゆるメディアを覆い尽くしているというか、写真を使わないメディアがないぐらいです。その結果、いわばブック形式も、インスタレーションという三次元の立体表現もできなきゃいけない。写真のアーティストに対するハードルは非常に上がっています。ピアノだけ弾ければよかった人が、サクソフォンも吹き、電子音楽もやり、ついでに会場の音響構成までするようなことで、なかなかうまくいきません。今回は、ブックのそのままに印画紙が編集されていて、印画紙という物理的なもののプレゼンスが大きかった。そして、壁にカレンダー方式で展示した。説得力がありますが、やや説明に流れている気もしないではない。印画紙の生々しさ、そしてその印画紙がPM2.5というものを反映しているということの生々しさに対して、ややインスタレーションはエレガント過ぎたかもしれません。

日本人と海外の受賞者との
プレゼンテーションの差

清水:海外受賞者のプレゼンテーションのクオリティーと、日本人の受賞者との間にはかなり差がありました。日本の作家たちはプレゼンをするときに「それを言ったらおしまいよ」というところを言ってしまいがちです。自分は貧乏に育ったとか、あるいは娘と散歩に行ったとか、要するに、他者にとって興味がないようなことを、まず大切な個人的な経験として持ち出す。それが何かとてもローカルな感じで差が付いたと思います。
サンドラさんは、日本人作家、あるいは他の作家たちのプレゼンを聞いてどう思われましたか?

サンドラ:はっきりとした違いが日本の写真家の方と他の方の間にあったかどうかは何とも言えません。でも、私自身としては、ソン・二アン・アンさんが日本の写真家の方と一緒に同じステージに上がるのはすごく重要だと思います。写真の作り方の違いなど、お互いに刺激を受けるのはいいことだと思うんです。

清水:日本と外国を分けるのも変ですが、たとえば、金 サジさん(2016年度写真新世紀[第39回公募]グランプリ)や、迫鉄平さん(2015年度写真新世紀[第38回公募]グランプリ)は極めてしっかりしたプレゼンをして、それが審査員にとても強い印象を与えました。
プレゼンテーションのシステムには多分賛否があると思います。作品から受ける印象と、作家、その本人を見たときのギャップがまずあります。例えば、私はソン・ニアン・アンさんを女性だと思っていたので(笑)、かなり驚きました。福島の夜景を撮っていた佐々木 香輔さんのなかなかオリジナルなスーツにも驚きました。作風と作家とのプレゼンスのギャップがすごくあるわけです。
作品とのギャップということでは、サンドラさんが選ばれた「無価値の価値」の岡田将さん。とても繊細で触覚的な美しさを感じさせる作品だと思います。本人が出てきたら、元ラグビー部の営業マンみたいな人でした。この人の作品は、ピントの位置をさまざまに変えて、それを全部合成して宝石のようなイメージを作っている。これは説明されないと分かりません。写真には大きさという次元がないということ、顕微鏡の中でピントの位置や合わせ方、とても原理的なことを考えて作っていることが分かりました。が、この人のプレゼンも、写真メディアの特徴を捉えているとか、あるいは砂粒の中のケイ素は、写真の光学ガラスにもつながるとか、そういう客観的な側面から発表すればいいのに、何で個人史のデモに流れるのかなというのがありました。

サンドラ:彼の話で気に入ったのが、グランドキャニオンに行って、そのときに圧倒されたという話です。いらっしゃったことのある方なら分かると思いますが、本当に巨大な景観です。自分が本当に小さな存在になったように感じます。逆にこの岡田さんは、本当に小さい砂粒にすごく興味を惹かれました。そして、この砂の素になっているのはこの巨大な崖の岩が細かくなって砂粒になったりする。それはすごくおもしろいと私は思いました。
この経験をプレゼンテーションに入れてくれれば良かったと思います。それを話してくれたらもっと内容も豊かになっただろうし、個人的に、瞑想的ともいえるような、心の中で感じたことをもう少しプレゼンテーションでいってほしかった。
でも、私がこの作品で気に入ったのは、小さい砂粒も実際に手で触れられるようになっていたことです。そして、ものすごく抽象化され、拡大された写真も同時に見られました。もっと大きく、もっと美しく展示できたかもとも思います。ただ、グランプリを受賞をされた方に比べると、自分の主題に対して目指していたものが完全に実現できていないと思いました。

清水:彼自身も作品のサイズは、自分自身がその画面に飲み込まれてしまうぐらい大きくしたいと言っていましたね。彼の表現がまだ全開ではないという、この先の可能性を感じさせます。
また、彼が見ているものは「無価値の価値」というよりも無時間的な、つまり人間がいようがいまいが関係ない世界の存在というか、要するに地学的な時間というものを見つめていると思います。グランドキャニオンはまさにそうですよね。石ころだって実は数億年ぐらいの時間を秘めている。ただ、その時間は人間の時間ではないわけです。
大量の応募作品を判断するときに、2つの方向性が多分あると思います。1つは、端的に美しいという、要するに、写真として、ビジュアルとしてのクオリティーから見るという方向性。もう1つは、コンセプチュアルな、例えばビットコインあるいは福島、あるいは流行のソーシャリー・エンゲージド・アートであるかどうか、ストーリーや背景、そういうものをメインに見るということ。この2つは両極であって、一方の極、つまり見た目の美だけだったら今では危ういし、現代美術・写真にはならないだろう。他方で、たとえば適当にダウンロードしたつまらない写真に「フクシマ」というキャプションを付ければそれで作品になるのかどうか。あまりにも写真以外の、写真に添えられる言葉のほうが強い。言葉になりやすいから批評家などで喜ぶ人は多いですけど、それだけだと退屈です。だから、その間でバランスを取るのが審査員は大変だったと思います。

ソーシャリー・エンゲージド・アートという
表現について

清水:ソーシャリー・エンゲージド・アートのトレンドについてはどうお考えですか?

サンドラ:非常に長く続く伝統であり、非常にパワフルなものだと思います。写真はソーシャリー・エンゲージド・アートにふさわしい媒体だと思っています。
西洋ではマグナムという機関があります。写真家アンリ・カルティエ=ブレッソン氏によって設立されました。世界で、自分の周りに非常にエンゲージしていた方でした。とても繁栄している機関でコンテンポラリー・フォトグラフィーにおいてとても重要な側面だと思います。
写真の経済学を見ると、社会的にソーシャリー・エンゲージの写真家としては生計を立てることは難しい。今、雑誌はこういった形態をあまり支援していません。ですからソーシャルメディアを使ったりすることにもなりますし、また、自分の作品を自分のギャラリーで売るという形態になっていきます。これは若干おかしな方向性だと思います。ですが実践的ではあると思います。こういった写真家たちは自分で生計を立てていかなければいけない、自分で支えていかなければいけないからです。

清水:ブルース・デイヴィッドソンにしても、ユージン・スミスの『水俣』でもいいですが、主眼はドキュメンタリーだった。たとえばロンドン郊外のリンゴの果樹園が消えていく、それとともに古き良き自然と人間との交流も消えていくという、そういうテーマであれば、例えば『LIFE』で特集6ページ「消えゆくロンドンの郊外」とか、普通に特集が組まれたようなテーマだと思うんです。それがリンゴをわざわざくり抜いて、ピンホールカメラにしてということになるわけです。
おそらく2つのことが言えると思います。
1つは、マグナムのような表現ではもはや本当のリアリティーであるとかドキュメンタリーというのはもう不可能になってしまった。つまり、マグナムないしはそういう戦場写真それ自体が1つのスタイルになって消費されてしまったのだという認識から、それではない、何かオルタナティブなことをやる。
2つ目は、先ほどおっしゃったように、彼らがお金をもらう場所がなくなったので、アートギャラリーというところで売る。だけど後者のほうは、やはり私にはとても倒錯的に見えて、人の不幸をネタにお金を稼いでいるようにしか見えない。そこがなんとも、アンビバレントな気分になります。

サンドラ:歴史的なところを見てみましょう。ユージン・スミスの『水俣』だけではなく、1960年代には、ゲイリー・ウィノグランド、リー・フリードランダー、ダイアン・アーバスなどニュー・ドキュメンタル・フォトグラフィーと呼ばれる展覧会がありました。この用語は、ジョン・シャーカフスキーが作りましたが、ドキュメンタリー写真の新しい形になりました。これによって課題が解決されるわけでも、世界がいいものになるわけでもない、でも写真はいうべきことをいっている、そういう形を作り出しました。そのようなマーケットが出来上がったわけです。

こういった写真がアートと見なされるためにマーケットはどう進化していったかというと、2つのレイヤーがあります。まず従来の伝統的な写真の使い方、つまり雑誌に使われていたというやり方がなくなって非政治的な伝統というものが1960年代に進化していきました。その後、写真は、美術館の壁やギャラリーで見られるようになっていったのです。
そして、ドキュメンタリー写真という伝統もありますね。でも、これらはほとんど反政治的、あるいは政治的な場合には非常に微妙な、個人的な側面がありました。つまり、いわゆる政策とか、政治とか、中東政治とか、そういうところを扱ったりはしないわけです。
今私たちは非常に不思議な状況になっています。アーティストと呼ぶ写真家たちが出てきた、そうするとその作品をアートとしてどうやって支援していくのか、売るのかという、そこが問題です。

清水:何らかの形でそういう作品をサポートするときに、例えば“Unseen”は、ある種オルタナティブな、だけどエコノミカルなシステムというのを生み出そうという試みだと思います。
もう1つ、写真表現がすごく拡張しているというところで、最近の応募者の中の1つのトレンドとして、たとえば澤田 華さん(写真新世紀2017年度[第40回公募]優秀賞)のように、ネットで流通している画像を取り込んで、それを加工して何かをする。もはや自分では写真を撮らない人たちというのも出てきています。
こういう、デジタル技術によってこれから可能になるような新しい写真表現について、何か予感のようなものをお持ちですか?今全てのカメラには動画機能が付いています。もっといえば時計の機能も付いていて、電話の機能も付いています。だから、静止画と動画という区別そのものがなし崩しになっていくのではないかというところから、写真新世紀は静止画と動画の区別をやめてしまった。残念ながら、目下の応募作品は、ほとんどがショートフィルムばかりでおもしろくありませんが、それでも、写真でもなく、映像でもなく、ないしは両者であるような、そういう中間的な表現、まさにデジタル技術が今までの静止画と動画という区別を曖昧にするような作品群という、それを期待してそういう方向へ踏み出したわけです。

サンドラ:写真新世紀はあらゆる形態の写真表現を受け付けているというところでは非常に懐が深いと思いますが、たくさんの表現から選ばなくてはいけないところが私の課題です。私は美術館で仕事をしています。何をいいとするのか、実際にアートとして展示するだけの質であるということをどうやって判断するのか。それで世間一般の人がそれに関心を持つのかというのを見極める、選定するのがすごく難しいわけです。
テクノロジーはどんどん進化しています。テクノロジーによって世界が覆われてしまったような感じです。テクノロジーを提供している側のメーカーはできるだけ簡単に、そしてできるだけおもしろい形で写真家が多くの写真を作れるようにすることが良かったんです。その対局にいる私たちは、かなり辛くなります。私たちが審査員としてどういうふうに判断すればいいのかというのが辛いところです。でも、私一人の話ではなくて他にもたくさんいろいろなものを見たり、考えたり、選んだりしている人たちがいます。私たちは本当にすごく民主的な媒体を扱っているんです。誰だって写真は作れます。はっきり言ってサルだって写真は撮れます。そうすると、数ある中から何を選ぶのかという、どのように選ぶのか。選ぶ理由は何なのか。それを支持する理由は何だろうかと考えざるをえないんです。

PROFILE

サンドラ・フィリップスSANDRA PHILLIPS

サンフランシスコ近代美術館、写真部門名誉キュレーター。ニューヨーク市立大学で博士号、ブリンマー大学で文学修士号、バード大学で文学士号を取得。1987年よりサンフランシスコ近代美術館に勤務し、1999年にシニアキュレーター、2017年に名誉キュレーターに就任。近代・現代写真の展覧会を多数開催し、高く評価されている。展覧会:「露出-窃視・監視と1870年以降のカメラ(Exposed: Voyeurism, Surveillance and the Camera Since 1870)」、「Diane Arbus-リベレーションズ(Revelations)」、「Helen Levitt」、「Dorothea Lange-アメリカン・フォトグラフス(American Photographs)」、「Daido Moriyama-ストレイ・ドッグ(Stray Dog)」、「クロッシング・ザ・フロンティア-アメリカ西部風景の変容(Crossing the Frontier: Photographs of the Developing West)」、「警察写真-証拠としての写真(Police Pictures: Photograph as Evidence)」、「Sebastião Salgado-不確かな恩寵(An Uncertain Grace: Sebastião Salgado)」。また、ニューヨーク州立大学ニューパルツ校、パーソンズ・スクール・オブ・デザイン、サンフランシスコ州立大学、サンフランシスコ・アート・インスティチュートなどの教育機関で教鞭を執っている。アメリカン・アカデミー・イン・ローマのレジデントを務めた経験があり、2000年に国際交流基金(ジャパンファウンデーション)の助成金を獲得している。

PROFILE

清水 穣MINORU SHIMIZU

1995年頃より現代美術・写真、現代音楽を中心に批評活動を展開し、国内外で展覧会カタログや写真集に寄稿している。『不可視性としての写真:ジェイムズ・ウェリング』(1995年 Wako Works of Art)で第1回重森弘淹写真評論賞受賞。主な著書に『写真と日々』(2006年 現代思潮新社)、『日々是写真』(2009年 現代思潮新社)『プルラモン』(2011年 現代思潮新社)などがある。現在、同志社大学グローバル地域文化学部教授。

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