INTERVIEW

インタビュー|安村 崇(写真家・2021年度[第44回公募]審査員)

個展『態態』(2019年、MISAKO&ROSEN、東京)撮影=岡野圭

「写真新世紀」最後の公募となった第44回公募審査を含め、
4年連続で審査員を務めていただいた安村 崇氏。
一貫した写真へのこだわりと探求心は、本人の心を常に揺さぶり、新たな作品に挑み続ける。

今回のインタビューは、1999年の受賞当時を振り返りながら、
グランプリに輝いた「日常らしさ」から新作「態態」まで、
作品の核となるコンセプト、取り組み方についてお話をうかがった。

— 1999年度グランプリ受賞から写真家の道を本格的に進まれ、2018年からは写真新世紀の審査員も務めていただきました。改めまして応募時のエピソードから、これまで制作された作品についてお話いただけますか?

写真新世紀がはじまったのが1991年で、僕は写真を学ぶ大学の2年生でした。当時は四谷のP3というお寺(東長寺)の地下のスペースで、年に一度、展覧会が行なわれていて、そこへは観客として何度か足を運び、年を追うごとに写真新世紀展が盛り上がってくる様子を肌で感じていました。その頃はまだ見ているだけで、作品を応募することは無かったのですが、ただ、やはり作品を作る上で、とても刺激になっていたように思います。また、この写真新世紀誌という冊子の存在は大きかったですね。写真で何かをはじめようとする時に、単に参考になるだけではなく、多くの受賞者が作品で自分の場所を切り開いていく、その様子を見て、すごく励みになったことを覚えています。そして受賞者の言葉が読めるのもよかったんですね。その人ならではの情熱のようなものを感じました。

— 当時の写真新世紀は、今とはまた異なる活気がありました。
1995年、ヒロミックスさんがグランプリを受賞され、それ以降、 “女の子写真家”と言われるムーブメントが起こり、女性写真家にスポットがあてられました。どんな印象をお持ちでしたか?

“女の子写真家”と一括りにはできないような多様さがあったと思いますが、あの頃、多くの人が写真に撮っていたような「私の人生、私の日常」は、たとえ見せかけであっても僕には無いなと思いながら、それらを眺めていました。そして、それよりもっと違う写真の使い方に関心がありましたね。写真を使うのなら、写真でなければできないことがしたい、という思いが強かったです。

— 佳作受賞後、再チャレンジされ、『日常らしさ』でグランプリを受賞されました。この作品を応募しようと思ったきっかけは?

佳作をいただいた『生ぬるい風が吹く』というシリーズでも自分の育ったところを撮影していて、それが『日常らしさ』に繋がっています。この二つのシリーズは似ている部分もありますが、制作中に意識していることはだいぶ違いました。『生ぬるい風が吹く』はありのままを装うというか、できる限り自然に見えるように撮影していました。一方『日常らしさ』では逆に“わざとらしさ”を意識するようになったんです。

『生ぬるい風が吹く』 犬 1998年
『日常らしさ』 みかん 2002年

— キッチンの収納棚にショートケーキがひょっこりあるような演出は、少し極端にも感じられますね(笑)。『生ぬるい風が吹く』からは、180度、転向したような印象です。

そうですね。そして、写真によって「食品」や「道具」などがそれらの役割から解放されているようにも感じられ、“モノそのもの”と呼びたくなるような様子が垣間見えます。そのような少しわざとらしい様子を手掛かりにして、普段は意識することが難しい日常を「日常」にしている、「日常らしさ」を浮かび上がらせることができないかという意図がありました。

— わざとらしさを意識する、きっかけになった写真は覚えていらっしゃいますか?その時ご自身に何か変化を感じられましたか?

それはスピーカーの写真でした。木目の化粧合板でできたコーナーに、大型のスピーカーが置かれているのですが、大きなウーファーが昆虫のお腹のように見えて、そのほかパーツも同じ方を向いて「気をつけ」しているような、なんとも異様な光景に見えたんですね。背景のプリント合板のラインやピンクの絨毯のディテールが影響していると思いますが、この様子をファインダー上に見たときに、その物々しさに大変驚いて、自分の中で何かが変わったことを今でもよく覚えています。それ以降、何か少しわざとらしい様子、物や背景を慎重に選んでそれをどこに置くか、いかにもそれらしい様子を探しました。「わざとらしく」というと「ありのまま」とは反対の言葉になりますが、「わざとかもしれないし、ありのままなのかもしれない」と、そんなふうに感じられる場面を探したということです。スピーカーの写真を撮影していて気がついたのは、これが本当にありのままなのかどうか、手が加えられているのかいないのかということは、その写真からは「はっきりとはわからない」ということでした。それならば、むしろ逆に「わざとらしさを意識する」ことで、なにかが起きるのではないか。といったところから、この『日常らしさ』のシリーズは始まっています。

— 4×5の大判フィルムカメラをお使いなんですよね。担いで移動、セッティングする、なかなか大変な作業ではありませんか?

4x5のカメラを使うのは、カメラによる描写、映されたものの物質感が魅力的であるだけでなく、撮影中に大きな像で確認できること、よく見て撮るためにファインダーの大きさが重要だったんです。見慣れた事物を写真に置き換える、そして写真で見るという作業だったので、撮影中に限りなく写真に近いものを見て確認したいという思いがありました。

『日常らしさ』 ショートケーキ 2002年
『日常らしさ』 スピーカー 1998年

『生ぬるい風が吹く』 農夫 1998年

『生ぬるい風が吹く』 通り庭 1995年

— 受賞後の新作個展で発表されたのが『「自然」をなぞる』(2000年)ですね。

グランプリを受賞できるとは思っていなかったので、個展の準備は全くしていませんでした。受賞後の1年間で何かを作るというのは、僕には大変な作業で、とても慌てたことを覚えています。
『「自然」をなぞる』のアイディアがまとまったのは、個展まで残り半年くらいだったと思います。撮影に出かけるには自動車が必要だと思い、急いで免許を取りに行った覚えがあります。このシリーズでは「実際の自然の風景を見ること」と「描かれたり真似されたりした自然を見ること」との相互作用、お互いに及ぼしあう影響について、写真を使って考えてみたいと思ったのです。

— 日本の名所へ行かれて、撮影されていますね。

そうですね。初心者マークをつけた車でビクビクしながら出かけました(笑)。いわゆる“名所”と言われるような「実際の自然」と「模倣された自然」を写真に置き換えて対比させる。少し理屈っぽい作品で、言葉が先にあるようにも感じられますが、とにかく時間がなかったので、実際の制作過程では、“自然の風景”に関するものならなんでも、集められるだけ集めて、その後で、それをどのように、組み合わせるかを考えながら、構成したものです。なので、もともと余計にも思える要素がたくさんあって。でもそれがあったおかげで、最終的に何か“おかしみ”のようなものが生まれている、そんなシリーズではないかと思っています。

— 個展『「自然」をなぞる』をやり遂げて、3つの作品が完成しました。作家としての変化を感じられましたか?

それほど大きく何かが変わったというようなことはなかったです。ただ、人に見ていただける機会が増え、自分の作品をより客観的に見なければならないという意識が強くなってきたようには思います。

『「自然」をなぞる』 りす 2001年
『「自然」をなぞる』 阿蘇 2003年
『「自然」をなぞる』 銭湯の絵(川) 2000年

— その後、『せめて惑星らしく』(「Takashi Yasumura PhotoExhibition」2005年、渋谷パルコ、東京)を発表されましたね。

風景についてのシリーズであった『「自然」をなぞる』に対して、『せめて惑星らしく』は風景という言葉には収まらない、自然の質感が魅力的であるだけでなく、撮影中に大きな像で確認できること、よく見て撮るためにファインダーの大きさが重要だったんです。見慣れた事物を写真に置き換える、そして写真で見るという作業だったので、撮影中に限りなく写真に近いものを見て確認したいという思いがありました。

— 撮られた人物たちも、砂粒の一つのように参加している感じがありますね。被写体をうまく巻き込んで、撮られています。

現場で出会った人たちにお願いして、ゆっくり歩いてもらったりしながら撮影しました。また、それとは別に、写真の上にフィギュアを置いて撮った写真が数点あります。一見、ある荒涼とした場所に人がいるように見えるーーでも、よく見ると写真の上にフィギュアが置いてあることがわかります。写っているものを“自然と人”として捉えると、ミニチュアの世界に入り込んでいく感覚がある一方、“フィギュアというモノ” が“写真というモノ”の上にあるという、“モノ対モノの関係”として捉えることもできます。このような写真を組み入れることで、見る人は写された世界にただ見入るだけでなく、一歩離れたところから、写真を眺めることを促されるのではないかと。すると、実際に人がいるシーンを捉えた写真も、少し怪しく見えてくるかもしれません。このような画面に対する疑いは「自分は一体何を見ているのか」という自問とともに、それまでに培った写真に対する無意識な見方を浮かび上がらせるのではないでしょうか? そして、そういう写真の見方、物事を俯瞰してみる態度が、この作品のテーマとなっている、ここを惑星としてみる態度とよく似ているようにも感じられるのです。

『せめて惑星らしく』 山口(秋吉台) 2003年
『せめて惑星らしく』 秋田(湯沼) 2007年

— 夜空に輝く星の写真が印象的ですね。「惑星」と大きくとらえて、タイトルを付けられた意図は?

今、自分が立っているこの場所を惑星として意識し、地球という惑星の丸みを感じながら日本各地の火山地帯や海辺を歩きました。そして、地球から見えるもっとも遠くのものとしての星、天体の写真を撮影しました。「星野写真」と呼ばれるものです。赤道儀という天体撮影用のモータードライブを使っています。『せめて惑星らしく』というタイトルは、この作品についてとてもよく説明してくれていると思います。この世界には、人知人力ではかなわない出来事がたくさんある。 でも、そういう出来事に遭遇したときにこそ、自分が惑星の上に立っているんだという認識は、人の小ささとともに、何か別の大きな世界に導いてくれるようにも思えるのです。そのような意味で、この『せめて惑星らしく』というタイトルを前向きに諦めのつく言葉として捉えています。

— イメージやアイディアが固まると、ものすごい集中力を発揮し行動されますね。計画を立てて、ちゃんとやりこなす。

はじまると夢中です。生きているうちになんとかしないと、という気持ちです。

『せめて惑星らしく』 和歌山(星) 2006年
『せめて惑星らしく』 模型(男) 2011年

— その後、『1/1』(2017年)が出版されました。
この作品は、制作期間が長かったようですね。

これは2008年から2015年にかけて、日本各地の、主に公共の建物やその設備が撮影の対象になっています。

— 見え方自体は、そんなに遠くに行っている感じではないですね(笑)。どんな場所へ出かけられていたんですか?

北は、北海道、南は、九州、鹿児島です。地図を見ながらローラー作戦のように公民館、公園、港とか、概ね公共の空間が多かったように思います。

— 色味のある場所を探されたんですか?

うーん。確かに、はじめに色に惹きつけられることは多かったですね。ただそれだけでは全く成立しませんでしたが。

— 被写体となる風景を探されましたが、通常、”風景”といわれるボリュームからは離れたんですね。

言ってしまえば、ただの壁や床ですからね。(笑)

— 1/1のサイズである、ということでしょうか。

『1/1』(イチブンノイチ)というのは、少しややこしいプロセスを経たタイトルです。この分数は縮尺を表す記号で、レプリカなんかに添えられ、原寸大を意味します。といっても、写真を実物と同じ大きさにプリントする、ということではなくて、では、なにとなにが同じサイズなのかというと、話は撮影中に戻ります。
この作品も今までと同じく、4x5インチのカメラを使っていて、カメラは三脚に固定され、ファインダーも比較的大きいので、そこに浮かぶ画像と撮影対象とをしっかり見比べながら撮影することができます。そういう作業の中で、あるときファインダーの画像がカメラの前の実物に重なって見えてしまったんですね。もっと複雑な対象を撮影している時、ファインダーの画像は現実と比べるといつも何かが間引かれているような印象なんですが、このシリーズのように対象が色面や線といったシンプルな要素に限定されると、ファインダーに見えるものと実物がそっくりで、まるでファインダーの画像が実物に貼り付いているような感覚に陥りました。
そのときにこの「1/1」という、原寸大を表す記号が頭に浮かんできたというわけです。

『1/1』 コカ・コーラの赤 2012年7月13日 北海道岩内郡岩内町
『1/1』 レインボー 2015年12月22日 佐賀県東松浦郡玄海町

— 見事な切り取りと言ってもいいでしょうか。鮮やかな色、模様、形による平面構成ですね。

グラフィカルな部分を注目してくださる方も多くいらっしゃいます。ただ自分の関心は別のところにあります。このシリーズの製作には、写真の中にあからさまな「背景」を作らないというルールがありました。画面全体を主題とみなしたもので覆い尽くすことで「背景」と呼べる部分を作らないようにしたんです。写真の背景というのは、僕にとって特に興味深い部分です。例えば、絵画における背景は確実に作者が絵の具を置いていることがわかりますが、写真のなかで背景として捉えられる部分は、カメラが勝手に写し撮ったようでもあり、もしかしたら作者は何も見ていなかったかもしれない。見ていなかったとしてもそれは写り込んでしまう、全く人為が及んでいない部分のようにも見えてきます。そのような意味で写真の中でも特に写真らしい部分と言えるのではないかと感じているんです。写真の“写真らしさ”に関わるであろう「背景」と呼べる部分をなくした時、その写真はどのように現れてくるか? そして、その写真を見ることでどんなことを感じられるか? それを検証してみようと考えたのです。展示作品は最大で120cmx150cmにプリントします。その実際のプリントを見ると、ディテールの現れ方に驚かされます。
“むき出しの物質感”というのか、何かの建物だとか、遊具だとか、ある意味で容器の中に収まっていた物質感が、背景がなくなって、その具体的な容器の “輪郭”が失われたことで、モノそのものの物質感として勢いを持って現れてくるように感じられるのです。

— 『日常らしさ』も物質感を表している作品だと思います。日常にあるモノたちが、物質感、素材感を伴って、こうも生き生きと表現されるというのを写真で提示されました。
『1/1』ではさらに周りをそぎ落とし、迫りに迫った。自分の作品を追求するという欲求をなぞり、新たな作品を組み立てるという、なんというか無駄のないお仕事ですね(笑)。

いや、実際の制作過程では、自分は大変無駄が多いと感じているんですよ。ただ無駄を単なる無駄では済まさないように心がけてはいます。

『1/1』 ハイランドボウル 2008年8月19日 岡山県倉敷市

動画作品の可能性

— 静止画と動画、デジタルの審査もお願いしました。フィルムにこだわりを持たれる先生にとってデジタル作品の審査はいかがでしたか?

特にフィルムにこだわっているわけではありませんが、審査は大変興味深かったです。特に動画は、最近自分でも撮影することがありますので。一眼レフカメラに動画機能がついて、写真だけを撮ってきた人にも動画も撮れるという選択肢が増えました。既存のジャンルではないところに、なにかまだ見たこともないような動画による作品が生まれてくるのではと前向きに捉えています。ずっとニッチなものであり続けられるか、わからないですけれど、刺激的です。

— ワクワクしますよね。そして『態態』(2019年、MISAKO&ROSEN)という作品を制作されました。

『態態』これは「わざわざ」と読み、「写真で見ること」を続けるなかで生まれてきたものです。目の前のものを、写真で見るために撮影してきたものですから、まずは「写真であること以外に意味は無い」というところから、これらの写真を眺めたいと考えています。「写真であること、写真で見ること」について考えていると、なにものでもない「写真そのものを見てみたい」という願いは募るばかりです。しかし何も写っていない写真を見ることはできないので、ひとまず何かを撮らなければなりません。そのようななか、非人間的な目であるレンズによって、このように写ってしまうことが素直な驚きとともに新鮮な体験として訪れれば、いずれ「写真そのもの」を感じることができるのではないか、と期待しているのです。

— 作家として活動されてきて、よかったことはありますか?

心底すごいと思える写真に出会えることです。写真がくれる喜びはいつも想像を超えています。すごいものに出会ったような気になって、すごい写真が撮れたような気にもなって、その興奮を伴って現像をして、そして仕上がった写真に何度もがっかりしてきました。でも、そのようなぬか喜びさえも、心の大事なところを開拓してくれているような気がします。そこが写真のおもしろさだと思っています。

『態態』 葉っぱ 2019年

— 撮ることでしか出会えない、喜びやおもしろさがあるんですね。

そうですね。作品を作っていて、僕が一番面白いというか、胸が踊るのは、写真を見て、それに心が反応して、何か言葉が出てきそうになる。その出てきそうで、でも、なかなか出てこない、あのムズムズとした感じ。そういうところに、写真をみることの、まぁ、写真だけに限った話ではないと思うのですが、そこに喜びがあるように感じています。心は確かに動いていて、そして、それが言葉になりそうでならない。言ってみれば自分の知っていることや、わかっていることの限界が、その作品によって広げられようとしているような状態なのかもしれません。潜在的な記憶や感情にその作品が勝手にアクセスをしてきて、何かを掘り起こそうとしている、そんなふうにも感じられます。

— 写真で伝えたいこと、見せたいことはありますか?

写真で何かを伝えることって、とても難しいことだと思うんですね。僕が撮っているような写真は、そこに何が写っているのかということは、かなりはっきりしている。けれど、その一枚の写真だけで何を意味するのか? と問われると途端に曖昧で、いかようにでも解釈できる。その写真が意味することや、これはなぜ撮られたのか? ということは、その写真だけでは、かなり不透明なわけです。だから、複数の写真を組み合わせて、そこに視覚的な文脈をこしらえ、その写真に意味を生み出していく。意味というほどはっきりしたものではないかもしれませんけれども、そのように、写真を作品として、成立させていきたいと考えています。

— 「態態」は、これから深みを増していく、新しいシリーズになっていきそうですね。動画も撮られていましたね。動画と写真で何か違いを感じられますか?

写真は、どれだけ待っても次の瞬間は現れない。でも、動画は、次に何が起こるかわからないという状態が保たれています。見続けないと次の瞬間どうなるかわからないという、何か期待感を伴った喜びに近い拘束があるように感じられます。
動画を分解すると1秒間に30枚の写真で成り立っている。ということは、動画は写真をどんどん入れ替え、差し替えすることで成り立っていて、写真と密接な関係にある。でも、見る時の意識は全く違っています。不思議ですね。

『態態』 仲良し 2017年
『態態』 私の靴下 2017年

— 安村さんにとって「写真」とは?

強いて言えば、現実世界を常に揺さぶり続けるもう一つの現実、もう一つのなにか。そういう漠然とした答えになってしまいますけれども。

— 安村さんにとって「写真新世紀」は、どんな公募展でしたか?

「写真新世紀」での受賞は、僕にとってとても大きな出来事だったし、大げさにいうと人生が変わった節目でした。感謝の気持ちでいっぱいです。

— 「写真新世紀」の審査員を4回務めていただきました。
インターネットが普及し、メール、SNSなどグローバルに情報発信ができる時代になり、作家の方たちもセルフプロデュースが容易にできる時代になりました。そういった時代背景がある中で、これから作家を志す方たちへアドバイスはありますか?

最初の作品というのはすごく大事だと思います。「写真新世紀」で賞を獲るような作品は、おそらくデビュー作と言われる可能性が高い。まだ何者でもない人が何者かになるための、自分の場所を切り開くような作品でなければならないでしょう。もちろん次作ではそれを越える必要がありますが、最初の作品というのは一生ついて回るものだと思います。遺作は選べないけれども、最初の作品は充分に吟味できる、ということですね。

— ありがとうございました。

『態態』 滝 2019年

PROFILE

安村 崇TAKASHI YASUMURA

1972年
滋賀県生まれ
1995年
日本大学芸術学部写真学科卒業
1999年
「第8回写真新世紀」年間グランプリ受賞
2005年
写真集『日常らしさ/DomesticScandals』を発表
パルコミュージアムで「安村 崇写真展」を開催
2006年
グループ展「Photo Espana」(マドリード、スペイン)参加
2017年
写真集『1/1』を発表
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