INTERVIEW

インタビュー|上田 義彦(写真家・写真新世紀第40回公募審査員)

上田 義彦 写真家 上田 義彦 写真家

自分の眼と身体が喜んでいる、
その瞬間に思わずシャッターを押しているようです。

広告写真の第一線で活躍されるほか数多くのオリジナル作品を手がけ、発表されている上田 義彦氏。
また、写真展の企画・展示、写真集の出版をプロデュースするなど、
上田氏のエネルギーは留まることがない。

多くの者を魅了するスタイリッシュな作品、独自の世界観、そのアイディアの源はどこにあるのか?
写真を活力とする上田氏のこれまでの歩みについてお話をうかがいました。

写真のはじまり

— 写真家を志したきっかけについてお話しいただけますか?

小さい頃から絵を描くのが好きで、なんとなくものを作る方面へいくのではないかという予感がありました。ですが、大学は血迷って自分にとっては、意味不明な法学部に進んでしまいました。入ってしまった後、はたと気づけば、自分は何をやっているのか。結局すぐに辞めてしまい、それから二年ほど、浪人のようなことをしていました。僕には姉がいるのですが、あるとき喫茶店で話をしていたら、「あなたは、何をしたいの?」といわれて。僕はやっぱり、何かを作ることをしてゆきたいというようなことを話しているうちに「写真なんてどうなの?」と突然、言われたんです。そのときに「写真…おもしろいかもしれない」と閃きました。降りてきたというような感じでしょうか。そこからは写真へまっしぐらになりました。

— 写真に惹かれた部分をすでにお持ちだったのですね。

本屋で立ち読みをよくしていたのですが、軒先に、『太陽』という雑誌があって、その本をパラパラとめくっていたら、篠山 紀信さんが撮られたパリの写真がありました。パリの下町の階段を撮影した、暗く重い印象のある写真でしたが、すごくいいなと思って見ていました。姉と話していたときに、その写真をすぐに思い出しました。

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— 写真のはじまりには、やってみたくなるような、印象づけられた写真のイメージをお持ちでいらっしゃったんですね。その写真に向かっていけるようなエネルギーを蓄えられていたのではないでしょうか。

そうかもしれません。そこから、写真の学校(ビジュアルアーツ専門学校・大阪校)へ進んで、いきなり写真の世界に入っていきました。その後は、写真家 福田 匡伸、有田 泰而の二人の助手に約1年ずつついて、その後、独立しました。

— その時に具体的な撮影技術などを学ばれたのですか?

写真の撮り方は、学生時代にすでに出来ていたように思います。僕は、学生時代、おもに四×五という大判カメラを担いで街を撮影していました。とても不自由なカメラです。ファインダーの中を一時間でも二時間でも覗いて、モノとにらめっこしながら撮影していました。写真とのつきあい方が、最初から軽くなかった。というのも、大きなカメラのせいもあって不自由で、フットワークが悪い。それが逆に写真の中に写るだろうモノや、コトについて長い時間ファインダーの中で考える。そんなことを自分自身にさせていたんだと思います。

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Hermes 2016 spring. summer © YOSHIHIKO UEDA

広告写真との出会い

もともとは広告写真をやるつもりは全くなかった。ただ、当時、『流行通信』というファッション誌がありましたが、それだけはやりたかった。それもファッションということではなく、ポートレートを撮りたいと思っていたので、その編集部に写真を見せました。そうしたら翌日には撮影の依頼が来ました、とても嬉しかったことを覚えています。
それから、思いもよらずファッションの撮影をやっていくことになりました。その後すぐに『マリ・クレール』というファッション誌で、素晴らしい編集長と出会い、その場で特集ページの撮影を任されました。その特集が縁で、その後、山本 耀司さんと出会うことになりました。

— 良い方たちと出会っていかれたのですね。広告のお仕事はどのようにはじめられたのですか?

広告の仕事は、葛西 薫さんと、ポートレート写真を使ったサントリーの新聞広告からはじまりました。

— 数々の作品を手がけられていらっしゃいますが、シャッターを押す瞬間というのは、どのような感じなのでしょうか?

自分の眼と身体が喜んでいる、その瞬間に思わずシャッターを押しているようです。多摩美で教えている学生たちには、ガンマンが早撃ちでドンと撃つように、それを「From the Hip」と呼ぶのですが、撮るときは一切考えないで撮る、選ぶときに徹底的に考えよう、と口を酸っぱく言っています。自分の考えなどに追いつかれる前に撮ってしまえということです。考えている間に奇跡の瞬間はどこかに消えて無くなってしまいますから。

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suntory, ウーロン茶 , 1995 © YOSHIHIKO UEDA

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suntory, ウーロン茶 , Fan Bingbing, 2011 © YOSHIHIKO UEDA

— ポートレートは、被写体がふと心を許す瞬間というのがあるように思うのですが、どのようにしてハートを捕えて撮影されていらっしゃるんですか?

人を撮っていると、シャッターを切る瞬間、僕自身が揺らいでいるような、相手の方も揺らいでいる、そういう瞬間があるのです。それは心を許したとも言えるし、無私の瞬間とも言えるし、刹那というか、そんな瞬間があるのです。正面から相手と向き合って、にらめっこしているときはなかなか、そのようなことは起こりませんが、それが見える、感じる瞬間があります。そういう時にシャッターを押していると思います。
家族を撮っているときは全く違っていて、なるべく彼らに気づかれないように撮ります。なんでもない日常を、そのまま生けどりしたいと思っています。子供の小さい頃は、今ここで撮っておかないと、この瞬間は二度と見ることができないという事がたくさんあって、撮り逃したらずっと後悔するような気がするんです。そういう瞬間が訪れる状況が常にある家の中では、カメラはパッと手にとりやすい場所に置いてあります。

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Patti Smith 1997 © YOSHIHIKO UEDA

— 広告のお仕事ですが、何人くらいが関わられ、どのようなプロセスで制作されていかれるのですか?

たとえば、エルメスの広告でいうと、周りにスタッフが30人くらいはいました。コマーシャルでは、50人くらいのスタッフが現場にいることもあります。打ち合わせを重ね、みんなと一緒に作っていきます。

— 被写体の方たちは、協力的に撮影に応じてくださるのですか?

そんなことないですよ、結構戦いです。

— 現場では撮影のみに集中されるのでしょうか?

全て自分の納得のいく形で、撮影をしたいので、写るもの全てに心を配り、撮影に臨みます。

— 様々なアイディアはどのようにして生み出されますか?

様々なケースがありますが、広告には、先に企画があります。その企画やアイディアをどう実現していくのか、心に触れる映像にどう落としこんでいくのか、そんなことを多くの人と力を合わせ、実現していくことが広告の醍醐味だと思っています。
僕が携わってきた広告で言えば、ウーロン茶(サントリー)の広告が一番好きです。20年くらい続きましたが、当時は頭の中が、そのことだけで一杯になってしまい、自分の作品よりも時間を取られてのめり込んでいました。

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無印良品 , Peru, 2012 © YOSHIHIKO UEDA

— 年に何回くらい海外へ行かれるのですか?

年中、出ています。合計すると年間3ヶ月ほどは海外にいると思います。いろんな国の空港でトランジットを重ね、時々自分がどこにいるのかわからなくなる時もあります(笑)。

— 時代時代を反映するモノ、人たちを表すお仕事をされていらっしゃいます。トレンド、センス、ご自身の生活の中で何かアンテナを張られていらっしゃるようなことはありますか?

いや、全然ないですね。ただ、自分の好きなことには、とんでもなく集中できます。誰でもそうだと思いますが、好きなことはとことんやれる。嫌なことは受け付けない、それでいいんじゃないでしょうか。
自分で引き受ける広告は、自分自身が心からやりたいと思うものだけにしています。そうすると出来上がったものは、誰かと必ずどこかで響き合います。皆で作りあげるものですが、僕自身の大切なものにもなっていきます。なので、やろうと決めたら、一切妥協はしません。

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Istanbul 2008 © YOSHIHIKO UEDA

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— SNSなどネットを通じて誰もが写真を簡単に撮り、公開する時代になっています。そのような状況がある中、写真はどのようになっていくと思われますか?

時代が変化していくのは止めようもなく、自分にはどうしようもないことですよね。それについては、僕自身がどうこうとは言えないですね。でも、その中で変化し、新しくなっていくものを、どのように使うかというのは、自分次第だと思います。僕も携帯は持っていて、時々これは携帯で撮った方がいいんじゃないかと直感で感じることがあります。そんな時は素直に携帯で撮るようにしています。結果、携帯でしか撮れないおもしろい写真が撮れています。それは、その時代に生きている人間が自然に身につける生きるための自然な行為なんでしょうね。

— 入ってくるものを拒まず弾かずバランスをとられ、調理されていく、それが上田先生流といいますか、やり方のように感じられますが、いかがですか?

自分では決まったやり方はないと思っています。そうですね…変な言い方ですが、僕は、時々自分が世の中を反射している鏡だと思うことがあります。そして自分は常に空っぽの入れ物としてあろうということを意識しています。日々生活する中で、自分に関わってくるものを拒絶しないで、反射する。僕の写真は、そのような中で、なにか自然に生まれているのかもしれません。
結婚して子供が出来て、自分の身の回りの状況がどんどん変わっていっても、その中心には、以前と変わらない自分がいることを感じる。と同時に、自分の世界が、どんどん大きく広がっていくことも感じている。時間も振り返るとアッという間に過ぎていき、この間、30歳だった自分が、いつのまにか60歳になっている。そのような世界に僕たちは生きているのだと思います。決まったやり方ではなく、受け入れていき反射していく。

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Materia No.5 2011 写真集「Materia」より © YOSHIHIKO UEDA

— これから写真家を志す方たちへメッセージをいただけないでしょうか?

今、どんな写真や写真家が注目されているのかとか、今後、写真はどうなっていくのか、ということに、あまり心を囚われない方がいいと思います。その人なりの生き方があり、その人なりの想いがある、それが必ず写真に出てくる。そのような中で、いつの間にか、その人なりの独特の世界が滲み出てくるのだと思います。そういう写真を見たいと思います。

— 良い写真とは、どんなものを思い描かれますか?

その人の想いとか、考えとかそういうものを超えてしまったものが写っている。そういう写真が、普遍的な写真になり得る力を持っていると思います。確かにシャッターを押したのですから、当然、その人の力で、呼び込んだものなのですが、それを撮った本人も自分の撮った写真を見て、驚いてしまうようなもの、それがすばらしい写真だと思います。

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Quinault No.39 1990–1991 写真集『Quinault』より © YOSHIHIKO UEDA

— 今後の予定を教えていただけますか?

新作が三冊、撮り続けた作品も含めて五冊出版する予定です。(うち二冊はすでに既刊。『林檎の木』赤々舎2017、『Forest 印象と記憶1989-2017』青幻舎2018)

— これから撮ってみたいものはありますか?

今一度、肖像、ポートレートを撮りたいと思っています。

— その候補の方たちは何人かいらっしゃるんですか?

イメージはあります。しかし、今はまだ言えません(笑)。

— 上田先生の新たなチャレンジが期待できる2018年になりそうですね。
ありがとうございました。

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写真集『林檎の木』より © YOSHIHIKO UEDA

PROFILE

上田 義彦YOSHIHIKO UEDA

1957年生まれ。写真家、多摩美術大学 教授。東京ADC賞最高賞、ニューヨークADC賞、カンヌグラフィック銀賞、朝日広告賞、日本写真協会 作家賞など国内外の様々な賞を受賞。代表作として、ネイティブアメリカンの神聖な森を撮影した『QUINAULT』、「山海塾」を主宰する前衛舞踏家・天児牛大のポートレイト集『AMAGATSU』、自身の家族に寄り添うようにカメラを向けた『at Home』。命の源をテーマにした森の写真『Materia』。自身の30有余年の活動を集大成した写真集『A Life with Camera』を2015年に出版。2011年よりGallery916を主宰。

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