INTERVIEW
台湾・高雄市立美術館でキュレーターを務める
ユーリン・リー氏を審査員にお招きしました。
アート、写真、建築の分野に見聞を広げ、
台湾のアートシーンを最前線で切り開いた氏は受賞作品をどのように評価されたのか、
また、キュレーターになられた経緯、
高雄市立美術館の魅力についてお話を伺いました。
— 「写真新世紀」の審査を終えていかがでしたか?
私は、前職の台北市立美術館、また現在館長をしている高雄市立美術館でもいくつかのコンテストに携わりましたが、写真新世紀の運営方法にはたくさん学びがありました。応募者のみなさんは、自己表現できる場があり、審査員もそれぞれに自分の優秀賞を選べ、意見を述べることができます。審査員どうしや審査員と受賞者が自由に発言し、意見交換が行える、その形がとても良いと思いました。議論の場があることに私は一番感心しました。
— 応募作品をご覧になって、台湾と日本の違いを何か感じられましたか?
若い世代の関心事は案外似ているように思いました。応募人数1,959名のテーマやコンセプトは、幅広くバラエティに富んでいましたよね。ですが、グランプリ、優秀賞に選出された7名の作品は、近親者をテーマにしたものなど少し偏りがでて、狭い印象になりました。そういった点からすると、私が田島顯さんを選出できたことは良かったと思います。彼は社会的な視点を持ち、ポテンシャルが高い。ただ、壁面を使ってどう作品を定義するかというところはもう少し検討の余地があったように思います。彼は、単なる風景写真家ではなく、探求心があって、プロジェクト・ベースで作品を制作できるアーティストです。同じく優秀賞の遠藤祐輔さんも独自の視点がありましたね。デジタルを駆使してプロジェクトで動いていく感覚はとても良いと思いました。
— 佳作は、どのような観点で選考されましたか?
審査員として、あるいはキュレーター、ディレクターとして、多元的に作家の表現を見たいと思っています。あるいは、皆さんに見てほしいのだと思います。佳作に選んだ原田愛子さんは、伝統的な織物の技法を使って繊細なオブジェを制作しています。テーマは、フェミニズム、女性の身体がモチーフです。柔らかい感じもありますが、じっくり見ると、何か深く考えさせられます。元来、このテーマは個性的ですが、彼女の表現は、直接的です。観客にしてみると、どう受けとったらいいのか、難しさもあるのではないでしょうか。見た目は、かわいいというわけでもなく、気持ちが悪いということでもない。繊細で複雑、多層的です。一方の金井啓太さんも身体表現をしていますが、これはパフォーマンスと言ってもいいかもしれません。アーティストは、やっぱり少し変人ですよね。私たちに見えない事実、私たちには見えていない真実に対して、身体をハンマーのようにして氷に穴を開ける。そして光が通って、ようやく治水槽のダムに繋がります。ダムを作るために、村人たちは移動させられますが、アーティストのこの表現がなければ、事件も浮き彫りにならず、何もなかったことになります。良い側面はありますが、ダムのためにすべての生活を奪われ、変わってしまう、それでダメになった人もいるかもしれません。社会のためならば、一部の人が犠牲を負わなければならない、そういう考え方は台湾にもあります。犠牲を強いられた事実に目をむける、そういう点から金井さんの作品に注目しました。
現代美術との出会い
— キュレーターを志したきっかけは?現在美術とはどのように出会われましたか?
私は、本を読む、音楽を聴く、映画を見るなど、文化的なことを好む子供時代を過ごしました。兄が二人いますが、彼らは芸術に全く興味はありませんでした。週末に見る映画をレンタルショップで選ぶときもいつもケンカです(笑)。大学時代は、英米文学を学んでいましたが、私は、映画監督になりたいと思っていました。でも、やりたいことを心の中にしまい、親ともぶつからないようにしていました。それでも芸術を学ぼうと、大学時代、写真のクラブに入りました。映画は、画面が繋がって物語を作る芸術だと思っていたので、一つひとつの画面をコントロールして、自分が物語をもってさえいれば制作できると思っていたんです。私が学生だった80年代は報道写真が盛んで、社会的な観点から制作された作品が多くありました。そうした背景から卒業制作には社会の暗い部分をテーマにした作品を発表する友人が多かったのですが、私はステージフォトを制作しました。ステージフォト、それ自体を全く知らずじまいでしたが、映画をやりたい気持ちから連作を作って5、6作品を発表しました。
— 初めての仕事
学校を卒業すると、私は、ディレクターのポジションをいただいてストックフォトとそこが運営するフォトギャラリーで仕事を始めました。80年代後半、台湾は経済が発達し、写真の需要が大きかった時です。そして、ディレクターをしながら、世界の写真家の作品を広めたい、海外のアートイベントをもっと知りたい、という思いが益々強くなっていきました。その後、渋谷にあった「キーフォト」というストックフォトの会社でインターンもしました。そこで学びたかったのです。それでも、足りなかった。遂に、「留学しよう」と決意しました。
そして、私は、日本に留学をしました。本当は、アメリカに行きたかったのですが、父が反対していたので、日本行きを許してもらいました。父は前々の総統、李登輝と同じ歳です。李氏の名言に「私は22歳まで日本人だった」という言葉があります。父も20歳まで日本軍に所属していて、日本に親しみを感じています。母もそうです。私は、アメリカ行きに準備していた試験を日本で受けることができ、上智大学に留学しました。その時は比較文化について学びました。80年代、ポストモダニズムが盛んな時期です。
そして「文化」の違いとアートの関係について研究しました。卒業後、学んだことを活かすためにどんな仕事をすればいいかを考えて、キュレーターになろうと決めました。
キュレーターとは一体どういう職業なのか。その定義と意味は90年代後半、21世紀になって固まってきましたが、よくわからないうちからこの仕事に魅力を感じていました。私の最初の仕事は、ギャラリー、そしてストックフォトということもあったのか、上智大学の最初の自己紹介では、「私は、将来、自分の美術館を作りたい、アートの良さを伝えたいので、この学校に来ました」と言ったんです(笑)。クラスメイトはみんなビックリしていました。
台湾でルーブル美術館や大英博物館のような巨大なコレクションをつくることは、歴史の長さも、資金力も違うので難しいかもしれない、けれども写真ならいけるかもしれないと、当時の私はそう考えていました。写真の歴史はまだ200年ほどで、複写が可能であり、予算面でも可能かもしれないと思いそこから写真美術館をやりたいと思っていたんです。
美術館の運営に携わって
そして台北市立美術館で10年近く働きました。私は、当時、台湾の現代アートを世界に紹介したいと思っていました。そのためにいくつの国に行きました。アメリカで感じたことは、アメリカの美術館のシステムは個人的だということです。ホイットニーもMoMAも中央政府のことは観念がない。自分たちで資金を集めて、独立して運営しています。そのシステムを台湾の現代美術にどう取り組むか。それを考えて、アメリカでも勉強しなければと思い、フルブライト・プログラムを取りました。2年間の奨学金をもらって、博士コースに入りました。結局12年間アメリカで学んで、博士論文を終えました。近現代芸術史だけではなく、近現代建築史も学びました。なぜなら作品を展示する場所はとても大切だと思ったからです。世界中を回っていろいろな建築を見たことも影響しています。紆余曲折はありましたが、点と点、それらが見えない線でつながり、ご縁があって、現在、高雄市立美術館で館長を務めています。現代美術館というのはどう社会の役目を果たすのか、アーティストとの関係、それから空間として、プログラムとしてどう実現させていくか。それが今の仕事です。
— 高雄市立美術館はどんな美術館ですか?
1994年に設立された高雄市立美術館は台湾南部の先住民のアーティストを支援するという目的で設立されました。2000年には、台湾の美術館の中から独立して、台湾原住民によるコンテンポラリーアートのコレクションと展覧会を紹介しています。オーストロネシア語族というのをご存知ですか?太平洋の島々の一番南はニュージーランド、西はマダガスカル島、東はハワイ・イースター島、そして北は台湾という広大な領域で話される言語系統をいいますが、これらのルーツは繋がっています。しかも研究によって台湾の原住民はその原点だと言われています。この特色をもって、世界に高雄市立美術館を広めていこうと考えました。高雄市立美術館は、市立ですが、3年前、独立法人に転向し公立として運営しています。アクセスを改善し、市民との距離を縮め、そして芸術が好きな方たちがより快適に過ごしてもらえる場所にするために、カフェや本屋を設置しました。助成金を集めながら、ひとつずつプロジェクトを進めて、新しいタイプの美術館づくりを目指しています。
美術館の敷地は40haあって、蛇や鷹もいて生物多様性、動植物の関係性が保たれています。その素晴らしい風景を利用して展示をすることもあります。16haの池があるのも自慢です。最近は収集品も多くなっています。美術館の価値は、所蔵品によって決まるところがあると思います。
— これからどんな美術館にしていきたいですか?
今は美術館自体がブランド力を持つことが大切だと考えています。そのために世界各国の美術館とコラボレーションを実現してきました。テート・モダン、森美術館、そしてケ・ブランリー美術館です。たくさんの方が高雄に来られました。このような仕掛けを今後もしていきたいです。
— 最後に写真新世紀の応募者含め、クリエイターを目指す人たちにメッセージをお願いします。
好奇心をもって身の回りを見てください。そこから少しずつ拡大すると、家庭だけでなく環境や社会、世界、宇宙など、興味の幅が広がっていきます。そしてなにより情熱が大切です。情熱があれば、細かいことはいくらでもどうにでもなります。技術ももちろん重要です。良いアーティストはみな技術を持っています。学校で学べますが、独学でも身につけている人はいます。社会にでると、それをどう扱うのかという問題に直面していきます。言いたいこと、やりたいことがあるのに対して自分の使いたいと思う技術を自分の個性を持ってどうユニークに使っていくのかが重要です。好奇心と情熱をもって自分の表現に取り組んでほしいと思います。
— ありがとうございました。
PROFILE
ユーリン・リーYULIN LEE
2009年に台新銀行文化芸術基金会のアーティスティック・ディレクターに就任。2016年よりKMFAに勤務。台北市立美術館(TFAM)では、キュレーターとして勤務後、展示部門長に就任する。TFAMでは台湾と世界のアートシーンの橋渡し役として活躍。
コ・キュレーターとして、1997年および1999年のヴェネツィア・ビエンナーレ、1999年の第3回アジア・パシフィック現代美術トリエンナーレ(オーストラリア・クイーンズランド州)、2013年の第2回金沢・世界工芸トリエンナーレ(金沢21世紀美術館)への台湾の参加に尽力する。2002年の第2回福岡アジア美術トリエンナーレにはキュレーターとして参加する。