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レポート|写真新世紀30年の軌跡 写真ができること、写真でできたこと 仙台展

2023年8月5日-22日。
せんだいメディアテーク6Faにて「写真新世紀」の30年の軌跡を辿る展覧会が開催された。
18日間で3,668人の来場者が訪れ、盛況のうちに幕を閉じた。
その一部をレポートする。

「写真新世紀」は、1991年から30年に渡り行われてきた新人写真家の発掘、育成、支援を目的とした公募形式をとるキヤノンの文化支援プロジェクトである。
「写真新世紀30年の軌跡」公式図録の受賞者インタビューの中にもあるように、「写真界のM1グランプリ」、「写真界の甲子園」というキャッチフレーズがぴったりとくる。
国内外で活躍する誰もが知る著名な写真家の、青き情熱やクリエイティブ魂が感じられる受賞作品、作者自身の心の葛藤、悲しみや嬉しさ、楽しさなどが写し取られた声や音が、写真・映像作品を通して聞こえてくるように感じられる。

30年の節目の展覧会に付けられたキャッチコピーは「写真でできること、写真でできたこと」。個性豊かな歴代のグランプリ作品がずらりと並ぶ姿は実に圧巻だった。この30年の中で写真でできたことは何か、あるいは何だったのか?時代の変遷と共に「写真と時代そして可能性と未来」を感じさせる作品が集まっていたように感じられる。 東京では、2022年の10月に恵比寿と品川という二つの会場で開催された写真新世紀展だったが、巡回された仙台では、一度に全ての作品を見ることができた。それは大きな違いだったのではないだろうか。

夏休みやお盆が含まれていたこともあり、仙台以外の近県から、また都内や関西からの来場者もあった。場所が変われば写真に対する見方も感じ方も変わるものだ。会場までの道のり、青葉通りの欅並木も写真を見る前の序章となる。だから、きっと場所が変わるごとにそれぞれの良さや違いというものが感じられたに違いない。
メディアテークの広い空間で見ることでしか味わえない発見もあったであろう。
入場して閉館まで何時間も滞在し観覧されていた方もいた。それだけ価値の高い展示だったように感じる。

初日8月5日の仙台は、七夕祭の前夜祭であった。多くの家族連れやカップル、そして海外からの客人など幅広い層の来場者があった。
せんだいメディアテークは、平成に建てられた10大建築で、総合一位に選出された世界的に有名な建築物でもある。建物そのものの見学や、あるいは撮影に来る人も多くあった。
エレベーターで6階に降り立つと、すぐに写真新世紀の受付が目の前に現れる。驚きと共に「写真展も開催しているのですか?」と足を止めて入場する人も多かった。素朴な疑問として『30年の軌跡なのに「写真新世紀」というタイトルはどうして?』という質問も受けた。たしかに、30年の軌跡と「新世紀」という言葉は逆説的である。2000 年になる前には「新世紀がくる」と言われていたけれど、いざ21世紀になると次第にその言葉が古くさくなった。当時は、ものすごい近未来がやってくる、ロボットだらけの世界になるのかもしれないと思ったりしたものだが、ロボットが食事を配膳したり、ChatGPTなどが進化したとはいえ人間は普通に生活している。1990年代につけられた「写真新世紀」というタイトルは、2023年現在には、まるでバック・トゥ・ザ・フューチャーのようなねじれを感じさせてくれるのも奥深かった。
スマホが普及し、デジタルが進み、気軽に写真が撮れるようになったとしても写真そのものはなくならないだろうし、アナログの手法もなくなることはなさそうだ。写真の可能性は、写真の出現から手法や表現方法は変化していくだろうけれど、写真の未来は、これからも永遠に続いていく。

「写真新世紀」というタイトルとは裏腹に、時代を遡ることができることがユニークであり、一瞬頭がコンフューズする来場者の気持ちが素朴な質問から感じられ不思議とおもしろく感じられた。 七夕期間中は、七夕見学と写真展を合わせて見てみようという入場者も多く、家族連れから親子連れ、これからを担う若い学生もいれば、写真を撮り続けている老年世代もいた。「パンフレットをもう一枚欲しい」、「あまりにもよかったから知り合いに配りたい」などというコメントや「明日もまたきます」などと興奮した口調で話してくれる人もいた。 会期中に開催された関連イベント、トークショーの後には、「公式図録を買いたい」と少年のように目をキラキラしている年配の方もいて、このイベントを心待ちにしていたのだなと嬉しくなるような瞬間がいくつもあった。

七夕が過ぎ、次はお盆の季節。開催から時間がたち徐々に評判が出てきたのか、足を運ぶ人は減るどころか増え始めた。
「10年以上前に撮られた作品なんて思えない!」「今撮った写真みたい!」と長谷波ロビン「THE JAPANESE BEACHーSUMAー」の前で嬉しそうに親戚に話す男子もいた。たしかに、通常は写真を見ることで時代を感じることもあるはずなのに、作品はどんなときも「今」がそこにある。写真を撮った時はたしかに10年以上前なのだけれど、その「今」がここにあり、楽しそうで生き生きした被写体たちが私たちに発する数々のエネルギーはまるでこの瞬間のように錯覚されて、「写真ができること」は時空を一瞬にして越えるのではないか?と思わされた瞬間でもあった。

「どうしてこんな素晴らしいコンテストがなくなってしまうのですか?」と写真新世紀の幕が降りることを残念がる方もいた。写真を取り巻く環境が変わったこと、スマホの普及や肖像権、個人情報の保守など、ストリートスナップなどが気軽に撮りにくくなったことなど伝えられる限りを話した。30年も続いたプロジェクトを始めて知ったという方もいらしたけれど、素晴らしかったという感想と同じくらい終了することに対する寂しさを伝えてくれる人もいた。

展覧会後半は、過去の受賞者たちが集まり、同窓会のような雰囲気も芽生え始めていた。少しずつこのコンテストが終わるのだ、と感じ始めて急に寂しさがリアルに襲ってきた。各年代の受賞者にとっては時に家族のような、仲間のような、同志のような役割が「写真新世紀」にあったのかもしれない。

主観になるけれど、若い年代から順番に作品を見ていく面白さもあった。1990年代の初期のグランプリ作品などは写真を撮る喜びそのものが溢れている、被写体の躍動感、あるいは旅写真などもその現場の空気感そのものが伝わってくるようなダイレクトな作品が印象に残っている。吉岡佐和子さんの 「FLYING HIPPO」という泳ぐカバの作品は、カバのユーモラスさとカバのことしか考えられなくなって見に行かずにはいられなくなった吉岡さんの心情もとても表されている。埼玉の東部動物公園で大人気のかばの「まんぷくくん」を思い起こさせてくれて思わず嬉しくなった。2000年代から現在に近づくにつれて、静けさを感じさせるようなものや人生の生や死、などと重ね合わせ、深く思考しながら眺めたくなる作品へと続き、全体を通して見ることで写真に伴う時代の変化を感じる。どちらがいいとか悪いとかそういうことではなくて、写真という一つの表現方法を通じても、時代によってここまでの違いが現れるのだ!と深く見れば見るほどに、考えさせられた。

写真に対する憧れ、厳しさ、難しさ、楽しさ、可能性。そして一つのコンテストが終わることへの寂しさ。実にあらゆるカラフルな感情を味わうことができた。写真というのはどこか敷居が高く、本当に背伸びして行ったギャラリーを思い出す。
しかし、本来写真というのは人生であり、生死も含めて作品を撮る人の心の機微を感じられ、心豊かにしてくれるものだ。時に若い才能に嫉妬し、写真そのものの美しさや楽しさにトキメキを感じたり。きっと来場者も様々な想いを溢れさせて帰宅したのではないだろうか。

「写真新世紀」の30年。
この公募の歴史に幕を閉じることはとても残念だけれど、きっとまた新しい何かが始まることを願ってやまない。

ライター 押木 真弓

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