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2021年度[第44回公募]グランプリ選出公開審査会報告

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PRESENTATION

中野 泰輔
「やさしい沼」

私の作品は裸体の男性の写真とスナップで構成しています。この作品を作り始めたのは去年の夏からで、その少し前、春から夏にかけては事情があり家に閉じこもる生活をしていました。そのうち体と精神のリンクが途切れるような感覚に陥るようになりました。喜びや怒り、刺激に対する反応がどんどん薄れていったのです。無気力になってだらだらと生活していたのですが、春の終わり頃、自転車に乗っていて車にはねられました。2mくらい飛ばされ、血も出て痛かったのですが、救急車で搬送されているときに「自分も体を持っていたんだ」と急に思い出しました。体と精神のリンクが少し復帰してクリアになったように感じました。

私は左手を損傷し、リハビリに通うことになりました。リハビリがきっかけで、家で自分の傷ついた裸体をじっと見る癖がつきました。リハビリ施設には私と同年代の男性が何人か通っていて、彼らに視線を向ける回数も増えていきました。同じように傷ついた彼らがどのように体を使うか関心があったからです。傷が治るにつれ、自分や同性の体を見る回数が増えていきました。自分の体を見ることや、身体所持感覚の揺らぎがあることについて何か作れないかと思い、この作品に着手しました。

私のセクシャリティはゲイで、被写体の男性たちはみんなストレートです。最初はセクシャリティには関係なく自分と同年代の男性を撮ろうと考えていたのですが、たまたま最初に被写体を引き受けてくれた男性がストレートでした。私はしゃべるのが好きなので、彼とよく話をするなかで、興味深いことがありました。ゲイである私が男性の身体を持っていることや、社会のどこに身を置くのかということ、体をどう使うかに関心が高いのに比べて、彼は男性の身体を持っていることやその社会的な影響についてまったく関心がありません。自分はどんなところでも生存できると思っていて、それは強さだと思いましたが、弱いことでもあると思いました。その後に撮影した男性たちも概ね彼と同じような意識を持っていました。ストレートの男性は社会の輪の中心にいて、外側にはいないので、自分の体を意識する必要があまりないのではないか。そのことを女性やゲイの友人に話すと強い共感が得られたのはとても面白いことでした。身体と精神のリンク切れを起こしていた私と、体を意識していないストレートの男性には何か共通点があるようにも思えました。そこから私とストレートの男性の「身体への意識の差異」に関心が生まれ、彼らを撮影していくことに決めたのです。

撮影者と被写体の権力関係について気になることがあり、裸体を撮ることは今まであまりやってきませんでした。男性だと判別できるが誰とはわからないような写真にしたいと思っていましたし、ブックには被写体の男性に撮影してもらった私の裸体の写真もあります。彼らの身体と私の身体が混ざることで、彼らの身体意識に私が同期していることを示せるのではないかと思いました。
また私には「自分はこの人なのかもしれない」というような入れ替わりに近い気持ちもあり、撮影はその投影儀式の一環だったようにも思います。ストレートの男性を撮影することは、鏡を見ているのにその像が勝手に動いたりぶれたりする感覚になるものでした。姿形はすごく似ているが意識はまったく違うことに最初は断絶を感じたりもしましたが、撮影するうちに、ストレートである彼らも自分の身体や同性の身体に関心があることに気づきました。そのとき、まったくの他者ではなく、うっすらとつながっていることを感じました。

私は関係性の欲求が人より強く、人を完全に他者化してしまうことは、関心を断ち切り関係を終わらせることだと思っています。そうではなく、小さなつながりや、小さな溝のようなものを見つけたいのだと思いました。私たちは言葉を使って世界を作っていますが、言葉には差異を固定化する作用があります。私は性の差異を再確認したいわけではなく、差異を見直し、ほぐしたいと思っていました。
私は人との関わりによって気づいた欲望をテーマに作品を創る癖があります。人間関係の本質は相手の欲望を想像することだと思っています。欲望を発端とした作品づくりの形状は「沼」に似ていると思います。他者の欲望はどろどろしていてよく見えません。欲の沼に溺れている人を観察するのが写真家の役割かもしれませんが、私は観察者にはなりきれないので、一緒に沼に沈んでしまうこともあります。自分や同性の身体を見たり、同一視したり、身体感覚の揺らぎがあることは、欲の沼に自分を映すようなことだったと思い、作品のタイトルを「やさしい沼」としました。

体は政治や欲望や他者との関わりなどいろいろな要素がびっしりと詰まっている得体の知れない場所です。その得体の知れない場所をもっと見て、考えながら作品を創りたいと思います。身体や欲の先にあるものを見てみたいし、固定化された差異をほぐしていけたらと思います。

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審査員コメントと質疑応答

ライアン・マッギンレー氏(選者)

今回、ユニークなビジョンで自分たちの世界をつなぎ止め、さまざまな解釈をカメラを使って表現した作品にたくさん出会うことができました。その中でも、中野さんの作品は力強い描写とテクスチャーで一番印象に残りました。

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横田 大輔氏

ブックでも展示でも、流れの中で区分けをはっきりさせていないという印象がありました。それは色味やピントのゆるさ、構図の曖昧さなどで、境界を意識させないような連続するシークエンスがとても面白いと思いました。お伺いしたいのは、展示を組み重ねていることの意図です。

(中野 泰輔)今回初めて額装をしてみました。それまでは額装といえば完結された作品が等間隔に並んでいるようなイメージがあったのですが、本当にそうか?と。あるものは完結し、あるものは連続して続いているといった入り交じっているものを創りたいと思いました。1枚で完結するのであれば1枚でもいいのですが、編集をすることで世界が連なっているというのを見せたいと思いました。

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清水 穣氏

展示はコラージュ状の画面になっています。男性の裸体はすごく逆光だったり、見づらくなるようなエフェクトがかかっていますが、なぜきちんと凝視する形にしなかったのでしょうか。常に断片や後ろ姿、何かスライムのようなものが入っているせいで、妙に見慣れたスナップショットになっている感じがするし、どうしても「チラ見」しかしていないように見えてしまいます。それがよいものもあるのですが、ストレートの男性の裸体を凝視するショットもあったほうがもっと面白かったのかなと思いました。コラージュは一見するよりかなり凝った作りになっているので、もっと写真をよく見たいという思いがノイズに遮られているような、僕としてはノイズをキャンセリングしたいという欲求不満を感じてしまいました。

(中野 泰輔)左手をケガする前までは、三脚を立て、大判カメラでしっかり構図を作って撮っていました。左手が使えなくなったので、片手で簡単に撮影できるカメラを使うようになりました。それまでは自分の思い通りの構図でないと嫌だったのですが、片手で凝視せず撮るというのも重ねていくと意外な面白さがあり、このような仕上がりになりました。エフェクトは特にかけていません。

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オノデラユキ氏

今語られたことと、ブックや展示との間に少しギャップを感じました。写真はセンチメンタルや私写真的に見え、デジャヴュ感もあります。中野さんが作家として関心の高い身体の問題は深いものですが、写真は「今、こんな気持ちだよ」と表現しているように見えてしまうのです。もう少し突き放して作る、そういう課題は作家がこれから考えることではありますが、今の時点でどのように思われますか。

(中野 泰輔)私写真に見えることや、清水先生の言われる欲求不満のようなものは、私自身ミスリードしたいというところでもあり、恋人を撮っている私写真風に見られることも面白いと思っていました。なんというか、「ストレートです」という写真にすることは私の世界の見方とは違うなと思いました。

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PRESENTATION

  • 宛 超凡

    「河はすべて知っている——荒川」

  • テンビンコシ・ラチュワヨ

    「THEMBINKOSI HLATSHWAYO」

  • 光岡 幸一

    「もしもといつも」

  • 賀来 庭辰

    「THE LAKE」

  • ロバート・ザオ・レンフィ

    「Watching A Tree Disappear」

  • 千賀 健史

    「OS」

  • 中野 泰輔

    「やさしい沼」

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