PRESENTATION
山口 梓沙
「じいちゃんとわたし」
私は日々の生活の中で、常に誰かに冷ややかな目で見られているという恐怖感から息苦しさを感じていました。発言したり、行動したりする度に、笑われたくない、レッテルを貼られたくないと怯えていました。
息苦しさを感じたとき、私は祖父の家に遊びに行きます。祖父は耳が遠く、会話もろくに成立しませんが、彼の空間は静かで穏やかで、少し寂しくて、とても居心地が良いです。情報が断絶された静けさの中でゆっくりと溶けていくような安心感を覚えます。
祖父はカメラを向けてもまったく気に留めません。他人の目ばかり気にしている私とは真逆です。堂々とした、気ままな姿を見ていると、私も力が抜けて自然体で振る舞うことができます。そうして撮った写真を見ると、驚くほど素直な自分の感覚が現れていました。祖父の空気に包まれながら、見えなくなっていた自分自身と向き合い、まとめたものが今回の作品です。
私にとって写真とは、外の世界とつながるためのものではなく、自分の内側に潜るための行為です。シャッターを押すまで、頭では何も考えていません。まっさらの状態で自分の奥深くで何かが反応するのを待ち構えます。そうして撮影し、現像、プリント、編集という作業を繰り返す中で、少しずつ自分の存在が確かになります。写真に現れる自分の世界を眺めていると、それまでの不安が薄れていくような感じがありました。写真を撮り始めてから、自分の居場所を自分の中に見つけることができました。
写真は曖昧な表現だと思います。しかし、言葉にできない曖昧な感情を的確に表現できる手段でもあると思います。私はその曖昧さの中に豊かさを感じます。文章で伝えようとすると、言葉と言葉の隙間から大事なものが抜け落ちていくような感覚に陥ります。言葉が持つ意味の枠の中に押し込めた途端に、ある部分は削り取られ簡略化されてしまいます。枠に入りきらず、切り落とされたものこそ、写真でしか表現できないものではないかと思います。
審査員コメントと質疑応答
清水 穣氏
耳の遠い祖父という登場人物がいて、音のない世界、写真とはそういうものですが、そこにあなたの感性が光っていてセンスを感じました。写真をフォーマルに編集する才能もあると思います。
ブックで見ているときは「じいちゃんとわたし」というドキュメンタリーで、お祖父さんの日常がさりげなく、一つ一つ提示されている。でも、ただのドキュメンタリーかと思っていると、ある種のモチーフが反復されたり、響き合ったりして、ただのシークエンスではないものが立ち現れてくる、そこがブックの魅力だったわけです。だけどそれを壁面で見ると、洗練やお洒落が全面に出て、むしろ魅力が半減する部分がありました。
「じいちゃんとわたし」という小さな世界から出たとき、つまりこれからはどのような写真を考えていますか。
(山口)今回の作品では内省を進めていきましたが、どこまでいけば満足するのかはわかりません。もし自然に外の世界にもう少し興味を持てるようになれば、そういう写真も撮っていきたいと思っていますが、基本的には自分の実感の強いものからしか強い作品は作れないと思っています。
上田 義彦氏
山口さんの作品は、何かを見たときにそれをちゃんと写真に捉えることができる、基本的な力のある写真だと思います。豊かさや繊細な空気やたたずまい、時間、やさしさ、そういうとても繊細なものがきちんとフィルムに収まっていて、それを僕たちに感じさせてくれる。そういう力を強く感じます。僕はとても好きです。