PRESENTATION
光岡 幸一
「もしもといつも」
今回の作品は、同じタイトルで今年2月に渋谷の地下にあるギャラリーで開いた個展がもとになっています。渋谷というのは都内でも有数の湧き水が常に出ている土地で、そのギャラリーも常時ポンプで排水しないと水没する可能性のある場所にあり、床下にある3つの排水槽から下水道に水を流すようになっています。作品は、水を第1槽から汲み上げギャラリー内を通過させて第2槽に流すという、都市での見えない水の流れを可視化するものでした。
今回のきっかけは、今年の初めに行ったギャラリーでした。コロナ対策のためドアを開け放っていたので冷たい風が館内に入ってきて、普段とは違う、肌寒さを感じながら絵を見るという体験をしました。何か状況が変わったことで、外のもの、今まで排してきたものが中に入り込んできて、出会うはずのないものが出会うという体験で、そこには何かがあると思ったのです。コロナ禍によって非日常が日常に変わっていくという、ちょうど「もしも」と「いつも」の間くらいにしか予感できない何かを探ってみようと思い、作品づくりを始めました。
都市の「外側」をイメージさせる暗渠に何かがあるという直感から、詳しい人に案内してもらいました。真冬なのに暖かい、真っ暗なトンネルの中に水が流れる轟音が響いていました。普段過ごしている街のほんの一層下にこういう世界があるのだと思いました。日常と非日常が地上と地下という空間で隔てられていることが面白く、それは都市開発が選んできた姿だとも思いました。
地上に戻って渋谷駅前の大規模な工事を見ると、未来を創っている現場が大昔の発掘現場のようにも見えて不思議に感じました。写真に塗った泥の色は、初めて見た時にすごい色だと思いましたが、関東ローム層の鉄分による錆色だそうです。昔、渋谷川が暗渠になる前、その泥水を「渋色」と呼んだことが渋谷の語源になったという説もあるらしく、これが渋谷のオリジナルカラーであり、この泥は色々なものを孕んでいると感じて、みんなに見てもらおうと考えました。そこで、その泥を抽出して渋谷の写真に塗るという作品を制作しました。写真は、工事現場のほか都市開発に取り残されたアロエなど、日常と非日常が画面に重なり、見えていなかったものがそびえ立つようなものを選びました。
今回僕が言いたかったのは都市論的なことではなく、「もしも」と「いつも」の間に一瞬予感するものを、言葉ではなく肌で感じてもらえたら嬉しいということです。
展示方法として、実際に泥や水を使えたら良かったのですが、限られた壁面で何ができるかを考えました。差し迫ってくる感じを表現したくて、大きな写真を手前に傾けて展示する方法を選びました。
審査員コメントと質疑応答
横田 大輔氏(選者)
謎の多い作品だったので、プレゼンテーションを興味深く聞きました。ギャラリーに入ってきた風への違和感や、いろいろな偶然が重なった上での直感的な暗渠の選択など、日常的なものに対するアンテナの張り方が繊細であり独特であると思います。たどっていく体験を直接ドキュメンタリーとして見せるのではなく、光岡さんの中を経過し変性させたうえで体験をより抽象的な形にして、新しい体験としての作品に再現するという行為が私には魅力的です。
ところで暗渠に着目したのは本当に直感的なものだったのですか。また今回の展示ではいろいろな制限があったと思いますが、どのように考えていますか。
(光岡 幸一)暗渠については前から気になっていて、行ってみたいと思っていました。ただ自分ではどういうものとして気になっているのかがわかっていなかった。ギャラリーに吹き込んでくる風の、外のものが内に入ってきた感じ、内が外に開いたような感じが、都市の外に持って行かれた暗渠と重なり、今行くべきなんじゃないかという気がしたのです。
展示については、仮に何でもできて、実際に泥も水も使えたとしたら、大きな写真に水がバシャバシャかかっていて、それを上下から見られるような巨大インスタレーションを組みたいという妄想はありました。水は使えないまでも、この大きさなら実際に泥が付いていたほうがよかったとは思います。それもできなくて複写であれば、最低でも縦があと1.5倍はあったほうが、出したかった「差し迫ってくる感じ」には近いと思いました。
オノデラユキ氏
私も今回の展示を見て、泥が塗られたオリジナルが見たかったと思いました。写真の上にペインティングする手法は最近増えていて特殊なものではありませんが、驚いたのは今回の作品のもととなった展示で、これを許してくれるギャラリーもすごいと思いました。光岡さんにとって写真を使うというのは絶対的なものなのですか。
(光岡 幸一)絶対的なものではなく、例えるなら落語の中の漫才のような立ち位置でいられたらと思っていました。でも写真の面白さはずっと感じていて、そのポイントは「答えから先に見せられている」ような感覚です。シャッターを切るだけで写真は撮れますが、何が写っているのかわからないまま自分が置いてきぼりにされているような感覚です。それで写真に追いつきたいというか、何を撮ったのかわかろうとするために、写真を描き起こすことを始めました。ペインティングはそれが発展した形と捉えています。
椹木 野衣氏
渋谷川はずいぶん前にリサーチしたことがあり、暗渠では雨水が上から漏れてコンクリートが鍾乳石のようになり、遺跡というよりは鍾乳洞のような印象を受けたことを覚えています。その時の体験に基づくと、ハチ公あたりでは洞穴の壁に耳を近づけるとデパ地下の音が聞こえてきて、渋谷の日常が壁一枚で隣接している感じを受けました。こちら側は現代の洞窟で、あちら側は現代の資本主義空間のような。
光岡さんの作品は隣接ではなく、上から地下の様相を重ねていますが、重ねることにはあまりリアリティを感じられませんでした。表の空間と地下空間はセパレートしていて、重ならないが同じ場所にあるという感じのほうが近いと思いました。光岡さんは塗り重ねることのリアリティについてはどう考えていますか。重なっているということは、本来セパレートであるものが侵出してきたということですよね。大地震が渋谷を襲ったら、おそらく渋谷は液状化して、地下にある泥水で地上は埋まる、そのような意味なのかなと予想していました。もっとランダムに、液状化してしまった都市のように、泥をベタベタと付ければよかったのでは、と思います。
(光岡 幸一)私はこの作品を人に説明するとき「塗り重ねる」というよりは「なぞる」という言い方をしていました。写真に写っているものは、その時々に気になったものであり、それを自分の手でなぞることで理解しようとしている部分があったのだと思います。でも都市と暗渠のリアリティで言えば、その手法は確かに違うと思います。ご指摘は今後の作品に活かしていこうと思います。