PRESENTATION
宛 超凡
「河はすべて知っている——荒川」
イギリスの哲学者サイモン・ブラックバーンは、哲学の問題を水に大別しています。その水とは「自分自身」にまつわる問題、「世界」に関する問題、「自分と世界の関係」の問題です。私にとって写真を撮ることは、まさにこの水の問題を考察することです。撮影行為を通して私の中にある哲学と向き合うことともいえます。ファインダーから目の前の世界を観察し、私の心が揺れ動いたとき、目の前にある人、もの、出来事を選び取ってシャッターを切る。そのようにしてできあがった1枚の写真には、自分と世界との関係が反映されているといえるかもしれません。哲学の水の問題に明確な答えはないかもしれませんが、答えを得るための手段となるのが私にとっての写真です。
私の写真のテーマは、「人と風景」「風景と心」です。今回の作品は「人と風景」をテーマに制作しました。私の関心は風景の中の人ではなく、人のいる風景です。横長のパノラマのフォーマットで撮影しましたが、人が小さく写るのがその特徴です。実際、人は自然の中では小さく微力な存在でしかありません。しかし時として人の力は自然をも凌駕することがあります。私の写真からは自然の形を変えてきた人間の力を見ることができます。
日本に来る前、中国に住んでいたときは、大学近くの川辺で撮影していました。私の故郷には川がなく、川を撮ることはとても新鮮で面白い体験だったので、1年間ほぼ毎日撮りに行っていました。
東京に移り住んで、自然を通して東京という都市を見ようと思ったとき、思い出したのは中国で川辺を撮影したことでした。私は東京の縁をなぞるように荒川をたどることで、東京という都市に目を向けてみようと思いました。
荒川は過去に何度も氾濫し、人々の生活に大きな影響を及ぼしてきました。支流には東京の母なる川といわれる隅田川もあり、荒川を下ることで東京という都市のさまざまな面が見えてくると考えました。実際に見えてきたのは、都市の一つの側面だけではなく、自然に対する人間の力でした。
川にはいろいろな水が注いでいます。人々は川辺を利用したり、船で川を移動します。また川の水の成分の違いにより、川辺の生活や自然環境は異なります。川はそれらすべてを知っています。すべてを受け入れ、流れ続けているのです。
時間は川の流れのようなものだと思っています。人間はダムを造って流れる水をせき止めますが、写真もまた流れる時間を止める行為です。それは写真にしかできないことではないかと考えます。人間の感受性は時代によって変わるかもしれませんが、どの時代の人が見ても「これは写真だ」と思える普遍的な写真を撮りたいと思います。
審査員コメントと質疑応答
安村 崇氏(選者)
宛さんの志の高さを感じました。今年の夏も何度も川が氾濫し、「観測史上初」という言葉も聞きました。人間と自然の関係が問い直されるなか、宛さんの仕事は派手さはないがすごく堅実で、川と人との関係を今一度考えさせられる作品になっていると思います。
宛さんはネガで撮られています。大きなカメラを持って歩くとなると、どうしても天気のいい日を選んでしまうと思うのですが、一期一会、その時々しかない出会いを撮るという欲が少し欠けているような気がして、そういうものが増えてくるともっと作品の幅が広がるように思いました。
椹木 野衣氏
川の源流と都市部を流れる部分では風景も人の営みもまったく異なるので、今回の作品のように同じサイズで並列できるものなのかなと少し疑問に思いました。川のあり方、人の接し方もまったく違いますし、同一サイズの中に収められていることに違和感を持ちました。そのことについてお考えはありますか。
(宛 超凡)作品に取り掛かる前にカメラについては考えました。4×5などの大判や35mm、デジカメも試しましたが、撮りたいものに対して機材について考えすぎではないかと思い、作品のシリーズに最適で、川を眺めるときの気持ちとも合うパノラマを選びました。
オノデラユキ氏
考え方が非常に明快で思考も深く、写真にはそれがストレートではなく心地よい距離感で表現されていて、しっかりと撮っている作家だなと思いました。ご自分の作品をどのような形で見せるのがベストだと思いますか?
(宛 超凡)いつも写真展と写真集の2形態を考えていますが、今回は提出した大判サイズのプリントがベストだと思い、できれば広い空間で展示したいと考えました。写真集にするなら1ページに川の両岸の風景を並べて配置したいと思っています。