歴史館年代から見る

1946年-1954年

1946-1954

レンジファインダー(距離計連動式)カメラ全盛の時代

キヤノンカメラ株式会社に社名を変更し、本社工場も大田区下丸子へ移転。時代はまさに35mmレンジファインダーカメラ隆盛だったが、他社の追従を許さない(独)ライカ 「M3」が登場。レンジファインダーから撤退する多くの国内メーカーの中にあって、キヤノンは独自のシステムを塔載した傑作モデルを発表し続ける。

独自システム開発で戦後の基盤づくり

戦後再開新製品第1号機種「S II型」

精機光学工業が戦後の復興を果たした翌1946年(昭和21年)、国内輸出の形体による進駐軍の需要が高まったことなどにより「J II型」は順調に生産台数を伸ばし、同年11月末までには約560台がつくられた。そして、そのひと月前の10月には、待望のキヤノン新製品「S II型」が登場している。「S II型」は、一眼式連動距離計という、当時のライカにもなかったキヤノン独自の機構を塔載していた。戦前につくられた「標準型」の遺産ともいえる「J II型」に対し、戦後の精機光学工業の地盤づくりを期待されるカメラだった。

戦後、精機光学工業の礎となった「II B型」

1949年(昭和24年)4月に発売された「II B型」でも新機構を開発。使用レンズによってファインダー倍率を手動で変えられる、3段変倍一眼式連動距離計だ。このシステムは交換レンズに対応するキヤノン独自の仕様として、以降のキヤノン35mmレンジファインダーカメラに継承される。ここに、戦後における精機光学工業の確かな基盤が築かれたといえる。

さらなる飛躍を目指してキヤノンカメラ株式会社へ

この時期、精機光学工業の発展を大きく左右する出来事が起こる。ひとつは、精機光学工業株式会社から、キヤノンカメラ株式会社への社名変更。もうひとつは、本社工場の、下丸子への移転である。

当時の日本に駐留していた進駐軍には、カメラ好きな将兵が多くいたが、彼らから「レンズはセレナー、カメラはキヤノン、メーカーは精機光学工業というのは覚えにくい」という声が上がっていた。キヤノンカメラを求めて目黒まできたはいいが、精機光学工業の名前は思い出しにくいというアメリカ将兵のユーザーの声に応え、さらには国際的にも認められる会社をめざす意味で、1947年(昭和22年)9月15日、御手洗の迅速な判断によりキヤノンカメラ株式会社は誕生した。以来、メーカー名、カメラ名はキヤノンに統一された。そして、セレナーレンズも、1953年(昭和28年)にキヤノンレンズへと変更されることになる。

社名変更からおよそ3年後の1950年(昭和25年)8月。御手洗社長は、アメリカでの国際見本市・カメラ市場の視察と販売網の拡大を狙い渡米。その際、8mm、16mmシネカメラ、映写機などで高度な技術と販売網を誇る名門ベル・アンド・ハウエル社を訪問し、キヤノンカメラのアメリカでの販売について打診した。しかし、キヤノン高級35mmカメラの機能は素晴らしいが結局はメイド・イン・ジャパンであること、本社工場が火災に弱い木造建てであることなどを理由に、販売提携の話は拒絶されてしまう。

キヤノンが購入する前の旧富士航空計器(株)工場

アメリカでの販売計画は上手くいかなかったものの、御手洗の渡米はキヤノンにとって決して不毛ではなかった。世界のカメラ業界の現状はもちろん、不燃性工場、近代設備の必要性など、キヤノンが得たものは大きかった。そして1951年(昭和26年)6月、不燃性工場を求めていたキヤノンは、大田区下丸子にあった旧富士航空計器株式会社の工場を購入し、改装工事に着手。同年11月より、当時銀座に進出していた本社部門、目黒工場、板橋工場などを整理統合、漸次移転が行われた。

下丸子の新工場は、職場ごとに異なったカラーリングが施され、カラフルでモダンな工場に仕上げられた。ここに、世界を視野に入れたキヤノンの近代化の礎が確立されたのである。

名作レンズ「セレナー50mm F1.8」

戦後、ようやく一般カメラ用セレナーレンズが登場するが、物資不足などにより、キヤノンカメラ第一号となった「J II型」では「セレナー50mm F3.5」と「ニッコール50mm F3.5」が混在して販売されるという状態だった。その後、1947年(昭和22年)に「セレナー50mm F2」が完成し、これが標準レンズとして使用されることになる。また同年、キヤノン初の交換レンズ、「セレナー135mm F4」が発売されている。

セレナーレンズ製作が軌道に乗ったことを確信した日本光学工業は、1948年(昭和23年)、ニッコールレンズの供給を停止。キヤノン高級35mmカメラは、いよいよ自社レンズとともに歩む時代を迎えたのである。

ガウスタイプの名作レンズ「セレナー50mm F1.8」

1951年(昭和26年)、「セレナー50mm F1.8」が登場。後にキヤノンの事業多角化へ大きく貢献した技術者、伊藤宏によって開発されたこのレンズは、開放時にフレアが発生しがちというガウスタイプレンズの弱点を見事に克服した歴史に残る名レンズとして語り継がれている。世界中の著名なレンズ設計者の技術テーマだった、大口径、ガウスタイプレンズの泣き所を、独自の解析によって克服した伊藤の基本的理論は、広角系、望遠系の交換レンズの大口径化を促進し、セレナーからキヤノンへと名称が変わりながら、多くの名作レンズを世に送り出した。

ユーザーの心を掴んだ、高級35mmカメラ数々の名機

1950年代になると、続々と新製品が登場する。1951年(昭和26年)2月発売の「III型」は、国内初の1/1000秒シャッターを塔載。2ヵ月後の4月には、コードレスでフラッシュが使えるレール直結式フラッシュ装置つきの「IV型」が発売された。この年は、さらに「III型」の改良タイプ「III A型」のほか数々のモデルが登場。新製品ラッシュの1年だった。

名機の呼び声高い「IV Sb改型」

新製品の開発は途切れることなく続き、そうした中で名機が誕生する。「IV Sb型」である。1952年(昭和27年)12月に登場した「IV Sb型」は、35mmレンジファインダーカメラとして、世界で初めてスピードライトに同調する機能を搭載していた。1954年(昭和29年)3月には、改良を加えた「IV Sb改型」を発売。「IV Sb改型」は、2段重ね構造のスローガバナーによる1/15秒シャッターを塔載し、シャッタースピードが近似値的な倍数系列を実現。絞り値も倍数系列となり外部露出計とも連動しやすく、ライカにも劣らぬ名機として高い評価を受けることになった。

ライカM3の衝撃

35mmレンジファインダーカメラの最高峰ライカに匹敵するモデルを開発したキヤノン。しかし、1954年(昭和29年)、その「IV Sb改型」発売のわずかに前、ドイツのケルン市で開催された国際カメラショー第4回フォトキナで、これまでのレンジファインダーカメラの開発コンセプトとは全く異なる「ライカM3」が発表されていた。

ファインダーの明るさ、見えの良さ、連動距離計の正確さ。「M3」を実際に手にしたキヤノンの技術者たちは、その完成度の高さに相当のショックを受けたと伝えれられている。多くのユーザーから高い評価を得た「IV Sb改型」だったが、キヤノンは、いや、世界のカメラを取り巻く状況は、ライカM3の登場によって大きな変化を迎えようとしていた。まさに、カメラの激動の時代を迎え、キヤノンは新たな方向性を模索することになる。

ライカM3がもたらしたもの

1954年に登場した「ライカM3」。その明るいファインダー機構や正確な距離計連動機構を模することは難しく、キヤノンほか多くのメーカーは、日本が独自に開発およびシステム化しつつある一眼レフカメラによって、世界をリードすべく開発路線をシフトしていくことになった。そしてこの一眼レフカメラこそ、望遠レンズの使用などレンジファインダーカメラの限界を克服する新しいカメラとして、世界に受け入れられていくのである。