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1976年-1986年

1976-1986

カメラ機能の自動化電子化の時代

「AE-1」によって幕を開けた、35mm一眼レフカメラの自動化・電子化。フラッグシップ機「F-1」も電子化装備の「New F-1」に生まれ変わる。オートボーイシリーズも産声を上げ、レンズシャッター式カメラはAF(オートフォーカス=自動焦点)時代へ。さらにムービービデオカメラ、SVカメラの開発など新時代の予感が漂いはじめる。

自動化・電子化の先駆け「AE-1」

1973年(昭和48年)の第一次オイルショック。日本は狂乱物価に陥り、当時のキヤノンの社員の昇給率は、2年続けて35%を超えたという。そんな状況の中、社内ではカメラの自動化を求める声が沸き上がってきた。そして、1974年(昭和49年)1月、組織の枠を越えた100人余りのメンバーが集まり「新機種X開発計画」がスタートする。

新聞に掲載された「AE-1」の広告

誰でも失敗なく撮影ができ、コストパフォーマンスの高いカメラを目標に開発された新機種X=「AE-1」は、1976年(昭和51年)4月に登場した。電子、精密機械、光学、コンピュータなどの設計技術、超精密加工、自動加工、自動組立てなどの技術を結集し、世界で初めてCPU(Central Processing Unit)を塔載した35mmシャッタースピード優先式TTL・AE一眼レフカメラである。アクセサリーの「パワーワインダーA」を使えば、秒間2枚の連続撮影が可能になることから、キャッチフレーズは『連写一眼』。さらに、専用に開発されたスピードライトに対応する自動調光機能など、画期的な自動化機能を備えていた。

中堅普及機に関しては、キヤノンはAE一眼レフカメラ「EF」を発表していたが、TTLマニュアル測光機「FTb」が実質的な牽引役を担っており、35mm一眼レフカメラのトップをめざすキヤノンとしては新しい機種を開発する必要性を感じていた。こうした意識を原動力に誕生した「AE-1」は、35mm一眼レフカメラ開発の方向性を大きく変えるモデルとして、カメラ業界に衝撃を与えることになる。

AEは「Automatic Exposure Control=自動露出」を略した言葉だが、「AE-1」には、「Total Automatic System by Electronic SLR Camera=電子化による全自動一眼レフカメラの頂点(No.1)に立つカメラ」という意味も込められていた。そして、一世を風靡したキャッチフレーズ『連写一眼』は一般にも浸透。『激写』『楽写』などという言葉を生み出すきっかけともなった。また、アメリカでは世界的に著名なテニス、ゴルフプレイヤーを宣伝に起用し、日本のカメラメーカーでは初めて全米ネットによるTVコマーシャルを行なった。この戦略は成功し、アメリカでも発売と同時に爆発的ヒットを記録した。

電子化・自動化・多機能化を実現した「A-1」

「AE-1」が大ヒットを続ける1978年(昭和53年)4月、5つのAEモードを持つ「A-1」が登場した。「A-1」は、本格的デジタル制御のマイクロコンピュータを搭載しており、その高度な電子化、多機能性によって、カメラ業界内外の大きな注目を集めた。

「A-1」の5つのAEモードとは、シャッタースピード優先式AE、絞り優先式AE、プログラムAE、絞り込み実絞りAE、ストロボAEである。シャッター速度や絞りはカメラ側のダイアルで簡単に設定ができ、操作性にも優れている。完全デジタル制御方式は、測光から制御まで撮影の全過程で高精度化を図れることや、表示する情報量が飛躍的に増大すること、さらに製造過程では部品のユニット化によってローコストが実現するなどの数々のメリットがある。

こうした完全デジタル制御による多機能が、従来のカメラファンだけではなく、中学、高校生を中心としたメカ好きの若年層の大きな支持を得る結果となった。

キヤノンは、「AE-1」で積み上げたカメラの自動化・電子化技術を、「A-1」によってさらに進化させたのである。後に登場するTシリーズはもちろん、現行のEOSシリーズにいたるまで、「A-1」で培われ、磨かれていった先進の電子技術が踏襲されていることはいうまでもない。

さらなる向上を目指したニューFDレンズ

一眼レフカメラのAE化が進む中、FDレンズの改良が行なわれた。リアフォーカシングや非球面レンズなど、数々の特徴を備え、描写性能やカラーバランスの良さなどからユーザーの支持を得てきたFDレンズシリーズであったが、レンズ系のコンパクト化や、着脱方式の見直しなど、さらなる改良の余地が残されていたのである。中でも、レンズ着脱方式の見直しがニューFDレンズの大きな特徴である。それまでは、レンズの外側のリングで締め付ける方式だったが、交換レンズを多用するプロやアドバンストアマチュアから、「カチッとした締め付け確認ができないのが不満」という声が寄せられていた。そこで、ロック機構の付いたワンタッチ着脱方式を開発し、ニューFDレンズに採用したのである。製品上での刻印は従来通りであったが、市場では区別上「ニュー」としている。

FDレンズをさらに改良したニューFDレンズシリーズ

生まれ変わった最高級システム一眼レフカメラ「New F-1」

「向こう10年間は、基本の仕様と機能を変更しない」という公約をもって、キヤノン35mm一眼レフカメラのフラッグシップ機として1970年代を駆け抜けた「F-1」も、本格的に導入されはじめた電子技術による自動化・多機能化の流れから見て、その改良が求められる時期が来ていた。「F-1」発売以来10年間、キヤノンはプロカメラマンを中心とした「F-1」ユーザーの膨大な意見、要望、そして設計者が想像もしなかったカメラの使用法の違いなどを蓄積。それらの貴重な声と、精密光学、精密機械、電気実装、電子・物理光学などの技術を総動員して、次世代を担うにふさわしい新最高機種の開発が行われていた。そして1981年(昭和56年)9月、次世代の最高級35mmシステム一眼レフカメラ「New F-1」が登場する。

電子技術を導入した「ニューF-1」とシステム群

「New F-1」開発に関する基本的な思想、コンセプトは「F-1」と同様に、高品質、高精度に裏付けされた安全性、信頼性に最大のウエイトを置いている。さらに、撮影用途によって選択できるシャッタースピード優先式、絞り優先式などのAEシステム、電池がなくても使用できる電子とメカを融合させたハイブリットシャッターの採用など、「F-1」の機能を発展的に踏襲している。外観も「F-1」を基本とし、最高級機にふさわしい品格とAシリーズで好評だった右手操作、ホールド性に優れたパームグリップなど機動性、速写性の向上にも取り組んだ。また、シャッターダイアル、シャッターボタン、巻き上げレバーなどのメインの操作部材形状、位置を「F-1」と同様のレイアウトにし、「F-1」ユーザーが「New F-1」を手にした時にも違和感なく操作できるように配慮された。アクセサリー群は、最新の機能を盛り込むという目的のために「F-1」との互換性は棄てられたが、5種類の交換ファインダー、32種類のフォーカシングスクリーン、5コマ/秒のモータードライブ、100枚連続撮影が可能なフィルムチェンバーなど、「F-1」のシステムをはるかに上回る充実ぶりだった。

あくまでもプロユースの「New F-1」は、厳しい撮影条件下においても高い信頼性を発揮することという開発目標を実現することにより、1984年(昭和59年)のロサンゼルス・オリンピック大会では公式カメラに認定され、プロカメラとしての任務を果たすなど、世界各地のビッグイベントで多くの貴重な記録を残した。

1984年(昭和59年)には、ハイスピードモータードライブを塔載し、世界最高速秒14コマ/秒の連続撮影が可能となった「New F-1ハイスピードモータードライブカメラ」が、スポーツカメラマンなどの特殊ユーザー向けに限定発売されている。

暗中模索の中から生まれたTシリーズ

時代は第2次オイルショック。カメラの需要は減り、一眼レフより、安価なレンズシャッター機を求めるユーザーが増えていた。こうした状況を打破するために、Aシリーズに代わるAEカメラを模索していたキヤノンは、ユーザーの感性、ライフスタイルなどにマッチする新たなコンセプトに基づいた一眼レフTシリーズ開発を決定する。

撮影の簡易化を実現した「T80」のピクトグラフ

1983年(昭和58年)3月「T50」、1984年(昭和59年)4月「T70」、そして1985年(昭和60年)4月に「T80」と相次いでTシリーズを発売したキヤノン。「T80」では、誰でも簡単に写真がとれるピクトグラフを採用するなど、Tシリーズは徹底した自動化による撮影の簡易化が行なわれている。1986年(昭和61年)2月にはアドバンストアマチュアからプロカメラマンをターゲットにした「T90」も発売するが、時代は、まさにカメラ機能の自動化・電子化の混迷期。これから先、ユーザーが求めるカメラとは何か? そうした暗中模索の中で誕生したのがTシリーズであった。

AFコンパクト「AF35M」の誕生

アクティブAF方式採用「AF35M(オートボーイ)」の広告

キヤノン初のAF(オートフォーカス)レンズシャッター機「AF35M<オートボーイ>」開発の背景には、熾烈なAF競争があった。カメラ業界におけるAF実用第一号は、小西六写真工業株式会社(現/コニカ株式会社)から1977年(昭和52年)に発売された「コニカC35AF」である。その後、各メーカーがこぞってAF機を発売しはじめる。それらのカメラのAF機構は、米国ハネウェル社が開発したビジトロニクという測距素子を使用し、三角測量方式によって求められた被写体の2つのパターン(二重像)を電子的に検出するパッシブAF方式だった。この方式は暗い場所や被写体のコントラストが低い条件下ではピントが合いづらいことから、キヤノンは独自のAF方式を研究。赤外線を利用することにより、暗闇でも測距可能なアクティブ方式を完成させる。そして、「C35AF」より遅れること2年、1979年(昭和54年)11月、アクティブAF方式レンズシャッターカメラ「AF35M」が誕生した。

「AF35M」に採用したAF方式は、近赤外線発光ダイオードを利用した三角測距のアクティブ方式である。二重像合致式距離計の可動ミラーの代わりに、発光ダイオードを回転させている。それにより、暗闇や、被写体のコントラストに関係なくピントが合いやすく、測距時に二つの光学像を必要としないので、かなりの近距離測距も可能といった特徴がある。このようなアクティブAF方式の特徴とフィルム巻き上げ・巻き戻しの自動化、プログラムAE、フラッシュオートによるストロボAEなどによる使い良さ、写りの良さと相まって、「AF35M」通称オートボーイは、登場とともにAF全自動コンパクトカメラの代名詞となった。

8mmシネカメラの終焉とビデオカメラの誕生

電子映像、いわゆるビデオカメラの事業展開は、将来を見すえたプロジェクトとしてスタートした。この分野は主に家電メーカーの進出が著しかったが、ハイクオリティな画質にこだわり続けてきたカメラメーカーであるキヤノンとしては、映像・画像に関して絶対に遅れをとってはならないという申し合わせがなされ、光学技術をベースに開発が進められていた。

グッドデザイン賞も受賞した「キヤノビジョン8 VM-E1」

1981年(昭和56年)、世界中のメーカーによって8mmビデオフォーマットの規格統一作業がはじまると、当初からこの規格に注目していたキヤノンは、いよいよ本格的にビデオカメラメーカーとしての道を歩み始める。1983年(昭和58年)、社内組織改革により、電子映像事業部がカメラ事業部から独立。多くの実績を持つ家電メーカーを相手にビデオカメラ事業に参戦したキヤノンは、1985年(昭和60年)、初の一体型8mmビデオカメラ「キヤノビジョン8 VM-E1」を発売。大口径F1.2小型高性能6倍比パワーズームレンズ、軽量・コンパクトなボディ、静止画再生をはじめ充実した録画・再生機能など、数々の最新機能を搭載しており、同年のグッドデザイン賞にも選出されている。

一方8mmシネカメラはサウンド面の開発が進み、1976年(昭和56年)9月、キヤノン初のサウンド8mmシネカメラ「514XL-S」を発売。さらに1977年(昭和52年)3月にはサウンド機能を持つサウンドシネプロジェクター「PS-1000」を発売した。しかし、時代は8mmシネカメラからビデオカメラへと移行しつつあった。1982年(昭和57年)9月、「AF310XL」と、そのサウンド機能つきモデル「AF310XL-S」を発売したが、1985年(昭和60年)、両機の製造打ち切りをもって、「シネ8T」以来30年に渡る8mmシネカメラの歴史は幕を閉じる。

SV(スチルビデオ)カメラの開発

およそ160年余の歴史を持つ銀塩カメラに対し、この当時、電子技術をベースとした磁気記録スチルカメラの開発が水面下で進められていた。フィルムを使わないため、現像の必要がないことや、画像処理、電送が容易などのメリットが磁気記録スチルカメラの特徴である。キヤノンでも以前からこの分野の開発に着手してはいたが、カメラメーカーとしては画質についても厳しい基準を持たざるを得ないため、商品化に関しては当面視野の外であった。

カラービデオプリンター「RP-601」

電送機「RT-971」

1981年(昭和56年)、ソニー株式会社が磁気記録方式の「マビカ」を発表。キヤノンはいよいよ磁気記録スチルカメラ時代の到来と考え、同年10月、磁気記録カラースチルカメラ開発のタスクフォースを発足させた。

磁気記録スチルカメラの開発中、最も重要な役割を果たしたのは1984年(昭和59年)に開催されたロサンゼルス・オリンピック大会における、画像電送実験である。株式会社読売新聞社からの申し出を受け、10ヶ月という短期間で国内でのフィールドテスト、カメラマン教育、輸出諸手続きをこなし、電送機、再生機の開発・設計・試作完成に与えられた期間は、実質5ヶ月という超過密スケジュールだった。男子マラソンでは、電送機を取り付けた自動車電話がつながらず、急きょ公衆電話から電送するという一幕もあったが、この実験は成功し、磁気記録スチルカメラ開発にかかわる貴重なノウハウを残すこととなった。

スチルビデオシステム

世界で初めて製品化された磁気記録カメラ「RC-701」

ロサンゼルス・オリンピックでのデータと経験をベースに、キヤノンは磁気記録スチルカメラの製作に着手。1986年(昭和61年)、SV(スチルビデオ)カメラ「RC-701」とそのシステム群を発売する。ソニー(株)の「マビカ」以降、家電メーカー、カメラメーカーからいくつかの試作品が登場したが、世界で初めて商品化に至ったのはキヤノン「RC-701」であった。

磁気記録スチルカメラの記録方式はアナログ方式だったが、SVカメラの研究・開発で培われた多くのノウハウ・技術は、現代のデジタルカメラへと受継がれていった。