ガラスの限界を超える補正力:蛍石レンズ

ガラスの限界を超える補正力:蛍石レンズ

キヤノンレンズの高画質を支える大切な素材の一つが「蛍石(ほたるいし)」です。フッ化カルシウムの結晶体である蛍石で作ったレンズをガラスレンズと組み合わせることで、色収差を極小に抑えられることは古くから知られていました。しかし、天然の蛍石鉱石は小さく、顕微鏡の対物レンズなど小さな光学機器にしか使われていませんでした。イメージングの進化を追及し続けるキヤノンは、この蛍石を写真用レンズへ応用することに着目し、蛍石鉱石を原料に高純度で大型の人工蛍石結晶を合成する技術を独自に開発。1969年5月、世界で初めて一般消費者向けに蛍石レンズを採用した望遠レンズ「FL-F300mm F5.6」を発売しました。

究極の高性能レンズ「蛍石レンズ」(2011年9月制作:4分31秒)

蛍石レンズによる色収差補正の仕組みと効果

被写体の輪郭に色の付いた縁取りのようなものが写っていることがあります。「色収差」と呼ばれ、縁取り状になるほか、像全体に霞がかかったようになる場合もあります。この現象は、被写体のありのままの姿を写すという写真の理想を阻害してしまうため、クリアでシャープな画質の実現には色収差の効果的な補正が欠かせません。

枝の縁部分で紫色の縁のように見えるのが色収差

枝の縁部分で紫色の縁のように見えるのが色収差

色収差は、光がガラスの面を通過する際、赤・緑・青など色の波長の違いによって異なる角度で屈折し、色ごとに焦点位置がずれるために発生します。通常は、互いに逆方向に屈折する凸レンズと凹レンズを組み合わせることで、色収差を打ち消します。

ガララス凸レンズとガラス凹レンズを利用した色収差補正
ガラス凸レンズとガラス凹レンズを利用した色収差補正

ガラス凸レンズとガラス凹レンズを利用した色収差補正

しかし、通常のガラスでは、全ての波長の収差を打ち消すことはできません。残存色収差(二次スペクトル)と呼ばれ、赤など一部の波長で収差が残ります。ガラスの種類によっても波長ごとの屈折率が異なるため、組み合わせ次第で残存色収差を抑えることはできますが、ガラスの性質上の限界があります。ここで活躍するのが蛍石です。蛍石は通常のガラスとは原料自体が異なるため特性に大きな違いがあり、組み合わせることでより効果的に補正ができます。特に、焦点距離が長く、収差の影響が大きい望遠レンズで効果を発揮します。

蛍石凸レンズとガラス凹レンズを利用した色収差補正
蛍石凸レンズとガラス凹レンズを利用した色収差補正

蛍石凸レンズとガラス凹レンズを利用した色収差補正

キヤノンの蛍石レンズは、天然の蛍石を原料にしています。そのためガラスでは得られない低屈折率、低分散特性を持っており、また、赤から緑の波長はガラス同様の分散傾向でありながら、緑から青の波長は大きく分散する異常部分分散という特性を持っています。蛍石の凸レンズと、高分散ガラスの凹レンズを組み合わせることで、残存色収差をも打ち消し、クリアでシャープな高画質レンズを実現します。

屈折と分散
屈折と分散

屈折とは、光がガラスなどの物質を通過する際、その境界面で進行方向を変える現象で、その変化の度合いが屈折率です。屈折率は光の色成分(波長)によって異なるため、色ごとに進行方向がずれてしまいます。これを色の分散といい、一定の割合で発生するガラスレンズに対し、蛍石では変則的な割合で発生するため異常部分分散と呼びます。

蛍石レンズの誕生と望遠レンズの高画質化

補正の限界を超えて、色収差を極少に抑えられる蛍石レンズ。その誕生は1966年8月にスタートした「キヤノンF計画」にさかのぼります。より高性能なレンズを作るためには、新たな素材作りから始めなければならない。キヤノンの研究者たちはその強い思いから、カメラレンズ用素材としての人工蛍石結晶製造技術の確立に挑みました。

人工蛍石結晶製造の難しさは、それが結晶であるという点にあります。ガラスは本来、物質の状態を表す言葉です。非晶質という、構成する原子がランダムに固定化している状態なので、熱で溶かしさまざまな形状に加工しやすい特性を持っています。一方、蛍石は結晶質。構成する原子が規則正しく配列されなければ結晶になりません。天然の蛍石を粉砕し、不純物を取り除き、カメラレンズに応用できる大型の蛍石を、原子構造を寸分たがえず規則的に再結晶化させるのは至難の業。真空環境下、1,000℃以上の高温を高精度にコントロールしなければならず、高純度の大型結晶製造のための装置を一から開発する必要がありました。F計画スタートから2年後の1968年、キヤノンはこの課題をクリアし、カメラレンズに利用できる大型の人工蛍石結晶の合成に成功しました。

天然の蛍石結晶

左は天然の蛍石結晶。緑や紫に見えるのは結晶内に含まれる不純物の影響。中央が、キヤノンが製造する人工蛍石結晶のインゴット。
天然の蛍石は、加熱すると幻想的な光を発することから、昆虫の蛍に例えられこの名がついたと言われています。蛍がきれいな水辺でしか生息できないように、蛍石もまた、不純物のない高純度な結晶でなければ撮影用レンズとしての光を放つことはできません。

蛍石レンズ製造のもう1つの課題が研磨です。蛍石はガラスよりも柔らかくデリケートなため、ガラスレンズと同様の研磨ができません。そこでキヤノンでは、特殊な研磨技術を開発し、ガラスレンズの4倍以上の時間をかけて研磨することで、翌年の1969年5月、製品化を実現しました。

蛍石レンズを採用した世界初のカメラ用レンズFL-F300mm F5.6(1969年発売)蛍石の光をイメージした緑のラインは、蛍石レンズを採用した証。

蛍石レンズを採用した世界初のカメラ用レンズFL-F300mm F5.6(1969年発売)蛍石の光をイメージした緑のラインは、蛍石レンズを採用した証。

数々の困難を乗り越え製品化されたFL-F300mm F5.6は、その鮮明で高コントラストな描写から高い評価を受け、報道など、さまざまな分野で活躍しました。
キヤノンでは、その後も高温真空技術や温度制御技術、研磨技術を進化させ、数多くのレンズに蛍石レンズを採用。今も望遠レンズの高画質化を追及し続けています。

蛍石レンズの製造工程

研削、研磨などガラス加工と同様の工程に見えますが、蛍石レンズはすべての製造工程において、ゆっくりと細心の注意を払いながら加工していきます。

1.原材料
蛍石レンズの原材料は天然に産出される鉱石です。

1.原材料

2.粉砕・精製
原材料の蛍石原石を粉砕し、不純物を取り除いた後、カーボン製のるつぼに詰めます。

2.粉砕・精製

3.結晶成長
上部にヒーターを備えた結晶成長装置で1,400℃に加熱。原料の蛍石が融解した後、時間をかけ少しずつるつぼを下げていくことで、るつぼの底部から結晶化させていきます。

3.結晶成長

4.アニール
アニールとは、成長した結晶の内部に生じた歪みを除去する工程です。割れる原因となる歪みは、融けない程度の高温まで加熱した後、数週間以上の長い時間をかけて室温まで冷ますことで取り除きます。

4.アニール

5.切り出し・粗加工
表面の不要な部分を削り、レンズの大きさに合わせて粗加工していきます。また、結晶の内部を検査して、不具合がないかを確認します。

5.切り出し・粗加工

6.研削
上面、下面を球面状に研削して、スリガラス状のレンズの形にしていきます。

6.研削

7.研磨
研磨剤を凝集したペレットで、表面を半透明にし、仕様の寸法に合わせ込みます。最後に特殊な研磨剤を用いて表面の細かいキズを取ります。

7.研磨

8.蒸着
大気圧の100万~1億分の1という高真空状態の中で蒸着材料を加熱蒸発させて、研磨を終えたレンズに薄膜を形成します。

8.蒸着

9.完成
干渉計を用い精度を検査。熟練の技術者が確認し、合格したものだけが、レンズ組み立て工程に届けられます。

9.完成

蛍石レンズ搭載レンズ(2021年5月現在)

キヤノンがFL-F300mm以降これまでに製品化した、蛍石レンズ搭載レンズは39本。蛍石レンズは色収差補正だけではなく、製品の軽量化や小型化にも貢献するため、大型の望遠レンズに積極的に採用されています。
スポーツ、報道などの分野で活躍するプロから、野鳥、鉄道、飛行機などの撮影を趣味とするハイアマチュアまで、超望遠での高画質を求める多くのフォトグラファーに愛用されています。

RF600mm F4 L IS USM(2021年発売)

RF600mm F4 L IS USM(2021年発売)