エンターテインメントや教育、観光など幅広い分野で活用が進むVR(Virtual Reality:仮想現実)コンテンツ。これまで制作には大がかりな機材や特別な編集環境が必要でした。キヤノンは、映像クリエイターの「より効率的に、高画質なVR映像を制作したい」という想いに応えるため、新コンセプトのレンズとソフトウエアの開発に挑戦しました。
横山:
開発のきっかけは、映像分野で注目が高まっているVRに対して「キヤノンでできることはないか」という思いでした。当時、YouTubeでも180°VRへの対応が始まり、VRの重要性は今後一層高まると予想されていましたし、キヤノンが長年培ってきたイメージングの技術を生かして、より手軽で高画質なVRソリューションをきっと提供できると考えたのです。
長年一眼レフカメラ用の交換レンズの開発に携わる。その後、新規要素開発に携わり、XR撮像に関するテーマに従事。EOS VR SYSTEMでは光学(設計、組み立て)担当。
野田:
当時のVR映像の制作は、手軽な撮影環境では、高画質な映像を得ることが難しく、カメラを2台ならべて完全に同期させる必要があり、機材や準備が大がかりになるという課題がありました。さらに、撮影後の編集では2台のカメラで撮った映像を同期させ、色や明るさを合わせる必要もあり、膨大な時間が必要でした。そこで私たちは、1台のカメラに2つのレンズの映像を一度に記録することで、「手軽に撮影できて高画質」なVR映像を実現するRF5.2mm F2.8 L DUAL FISHEYEの開発がスタートしました。
設計担当としてコンパクトデジタルカメラのメカ設計に携わる。その後交換レンズのレンズ周りのメカ設計に従事。EOS VR SYSTEMではフォーカス機構や絞りを担当。
1本のレンズに2つの魚眼レンズを搭載し、1台のカメラで、3D 180°VR映像を撮影できる画期的なレンズ。撮影後のワークフローを軽減するソフトウエアEOS VR Utilityも含め、EOS VR SYSTEMを構成。3D VR映像の普及に大きく貢献しています。
視点の移動が可能な、2D VRムービーに変換したサンプル映像です。
3D 180°VR映像の視聴には、VRゴーグルが必要です。
横山:
製品開発を進めるには、さまざまな部門の協力を得る必要があります。VRレンズの魅力を伝えるには「実際に映像を見せるのが一番」と考え、ダンスや楽器演奏が得意な同僚に協力してもらい、VR映像を撮影。できたばかりの試作機で撮影した、複数の映像を社内のさまざまな人に見てもらいました。3D 180°VRをこれまで見たことがなかった人も多く、「思った以上の臨場感」と好印象を得ることができました。
野田:
3D 180°VR映像を制作するには、VRレンズで撮影するだけではなく、2つの魚眼レンズで撮影された映像をVR用の正距円筒図法という特別な形式に変換する必要があり、そのためのソフトウエアの開発も必要でした。開発初期はメンバーも限られていたため、画像処理に関しては専任メンバーが不在という状況。「ならば、自分でやってみるか!」と取り組みました。
学生時代にプログラミングの経験があったため、開発用のツールを画像処理チームから提供してもらい、メカ設計の傍ら、アプリの開発にも取り組みました。はじめてで上手くいかないこともありましたが、キヤノンには部門をまたいで担当者同士が直接協力し合える環境があるので、画像処理チームに助言をもらいながら開発を進められました。
野田:
試作機の開発では早い段階から社外のVR撮影の第一人者に協力を仰ぎ、クリエイターの声を反映させながら、めざすべき方向をかためていきました。キヤノンには、VRの先進国であるアメリカに常駐してイメージング事業全般の情報収集を担うエンジニアがいますので、複数のVRクリエイターにヒアリングし、細かな最終仕様を決めていきました。
横山:
RF5.2mm F2.8 L DUAL FISHEYEの特徴は、2つの魚眼レンズの映像を1つのセンサーで記録できることです。映像の同期や明るさ、色のマッチングが不要となりワークフローの大幅な短縮できるほか、EOS R5を用いれば高精細な8K VR映像をつくることも可能です。RFマウントのショートバックフォーカスを生かしてレンズそのものをコンパクトに設計したこともポイントで、持ち運びやすく、より気軽に撮影できるようになりました。
RFマウント、ショートバックフォーカスについてはこちら:交換レンズ | キヤノングローバル (global.canon)
野田:
試作機を使ったVRクリエイターからは「後処理が劇的に楽になった」「高画質で臨場感がある」といったフィードバックを得ることができ、手応えを感じました。「機材の準備から映像編集まで、従来の半分以下の時間で高画質コンテンツをつくることができた」とのコメントもありました。
横山:
開発では設計や製造でもさまざまな困難がありました。キヤノンでは、長年、一眼レフカメラ用の魚眼レンズや、高画質な魚眼ズームレンズもつくっています。魚眼レンズ自体の設計は、これまでの知見を生かしてスムーズに進めることができましたが、1つのカメラに2つのレンズをつけたことはありません。レンズ内にプリズムを入れて光を曲げ、2本のレンズの像を1つのセンサー上に投影するという初めての試みに対して、新たなシミュレーション手法を開発したほか、社内の双眼鏡の開発チームからも助言を得て設計を進めました。
暗室などさまざまな環境でのテストをくり返して開発
交換レンズは複数のレンズを組み合わせてつくられていて、1枚1枚のレンズには、透過率を向上させることや、カラーバランスを調整するためのコーティングが施されています。それぞれのコーティングには、製造の過程でどうしてもわずかな誤差が生じてしまうため、同じレンズでも見る角度によって色が変わって見えることがあり、レンズが2つだと角度によっては左右のレンズの色が違って見えてしまいます。
双眼鏡では、このような差が出ないようコーティングにも工夫がされており、その工夫を今回の設計にも取り入れ、外観の品位を高めることができました。また、交換レンズ自体も、バラつきが少ないことを前提として、厳しい品質管理を行っています。
野田:
レンズが2つあることで、それぞれの画質を均一にすることは難しかった部分です。厳しい規格を策定して生産時のバラつきを抑えていますが、使用時の温度など、環境要因で画質にわずかなバラつきが出ることもあります。この問題は、EOS
VR
Utilityに自動で補正する機能を取り入れ、ソフトウエア側で対応しました。
環境要因によるバラつきは、一般ユーザーが気づかないほど小さなものですが、わずかでもバラつきがあるVR映像を長時間視聴すると「VR酔い」が生じるというデータもあります。そのため、「長時間見ても疲れない」という品質を実現するために精度を極限まで高めています。
電子防振機能により、VR酔いの原因となるブレを改善
横山:
発売以降、多くのお客さまに使っていただくことができました。今後は一般の映像愛好家の方々でも気軽にVRコンテンツをつくれるような製品・サービスを提供したいです。
また、VRはエンターテインメントだけでなく、さまざまな分野で活用されはじめています。なかでも教育、研修などの分野は利用の拡大が期待されていて、伝統工芸の技術伝承や産業・工業分野での技能継承など、高画質3D
VRの圧倒的な臨場感が役に立つはずだと考えています。
野田:
今後も熱意を持ったメンバーを巻き込みながらEOS VR SYSTEMをさらに発展させていきたいです。そして、その経験も生かしながら、積極的に挑戦ができるキヤノンの研究開発環境で、新たな技術の開発にも挑んでいきたいと思います。